日本代表監督・森保一という男<前編> スタッフの証言「すべてが勝利のため」
謙虚さと「社会人の心得」を持った日本代表監督
広島を3度のJ1優勝に導いた森保監督が、いよいよ日本代表での初陣へ 【Getty Images】
森保監督が東京五輪を目指すU−21日本代表との兼任で、A代表の監督に就任することが発表されたのが7月26日。いよいよA代表での初陣となるチリ戦が9月7日に迫っているが、就任から今日まで、さまざまな形で、それこそありとあらゆるところで森保監督の人柄であり、功績は語られてきた。
筆者もそれなりに森保監督との付き合いは長いほうで、そうした記事に触れれば触れるほどに、人としても、指導者としても、森保監督について知らない話はもうないのではないかと思っていた。だから、森保監督の人柄であり、指導者としての信念を知ることができる記事を書いてほしいと依頼されたときも、今さら目新しいエピソードをお届けすることはできないだろうとすら感じていた。
だから、一縷(いちる)の望みをかけて頼ったのが、森保監督自身が選手としてプレーし、そして監督として指揮を執った唯一のクラブであるサンフレッチェ広島の関係者だった。そして彼らから話を聞けば聞くほどに、あらためて森保一という人間が真っすぐなことを知った。
「森保さんとは、彼がマツダ(現・サンフレッチェ広島)でプレーしていたときからの付き合い」と話すのは、サンフレッチェ広島の営業部で働く福島陽子だ。「今でも家族ぐるみの交流がある」という彼女は、選手時代の森保監督についてこう教えてくれた。
「Jリーグが創設してまだ間もない1994年は、それこそ広島でアジア大会が開催されて、森保さんはその日本代表に選ばれるような選手だったんですよね。言ってしまえば、広島ではちょっとしたスター選手。その頃の私は広報をしていて、他にも日本代表に選ばれていたサンフレッチェ広島の選手たちをイベントに連れて行ったり、帯同する機会も多かったんです。当時はアマチュアから急にプロになったこともあって、選手たちも『普通のお兄ちゃん』みたいな存在から、急にスター扱いされるような雰囲気があって。だから、悪く言えば調子に乗ってしまってもおかしくない状況があったんです。
でも、森保さんはそういった雰囲気を一切出さず、何かをお願いしても全く不平不満を言うことがありませんでした。それこそ、彼だけはひとりでイベントに行かせても大丈夫だったくらい。当時の強化部長だった今西和男さんに、社会人としての心得をたたき込まれていたからか、選手時代も今と変わらず謙虚でしたね」
「遊ぶときも一生懸命だったんじゃないかな」
現役時代は名ボランチとして、2001年まで広島でプレーした 【写真:岡沢克郎/アフロ】
「森保さんは、とにかく真面目でしたね。サッカーはもちろんだけれど、何をするのも一生懸命。たぶん、遊ぶときも一生懸命だったんじゃないかな」
うれしそうに森保監督について話してくれた白石は、自らもサンフレッチェ広島の前身であるマツダの選手だった。しかし早くにその道を諦めた後は、Jリーグが創設した93年の夏から現場のマネージャーとなり、選手・森保と接していた。
「当時は人手が本当に足りなくてね。マネージャーといっても何をやればいいのか、右も左も分からなかった時代でした。選手たちからしてみたら、いろいろと要求したいことはあったと思うんですけれど、森保さんが文句を言うことは一切なかったですね。むしろ、『日本代表ではこうだった』とか『他のクラブはこうしている』とか、自分が見聞きしてきたことをクラブに提案してくれるような人でした。
それこそ、当時は練習場も一面しかありませんでしたが、練習後には一緒にバケツを持って、芝生の手入れをしてくれたくらい。森保さんが今もサッカーができる環境に感謝するのは、そこからきているのかもしれません」