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浦和の翼、橋岡大樹が示す成長への意欲
東京五輪世代、過去と今と可能性(10)
連載第10回は生粋の浦和育ちにして、早くもポジションをつかんでいる橋岡大樹が登場
連載第10回は生粋の浦和育ちにして、早くもポジションをつかんでいる橋岡大樹が登場【スポーツナビ】

 東京五輪世代の「これまで」と「未来」の双方を掘り下げていく当連載。第10回に登場するのは、今季浦和レッズのユースチームからトップチームへ昇格してきたばかりの高卒ルーキー、橋岡大樹だ。浦和のスタッフから「大人びている」と評される19歳は早くもポジションをつかみ、浦和の右サイドで躍動している。


 生粋の浦和育ちで、幼少期から浦和レッズの一員としてピッチに立つことを夢見てきた男であり、中学3年生にしてユースチームのレギュラーに抜てきされるなど、早くから大きな期待を背負ってきた逸材でもある。そんな男が振り返る過去、夢見る未来とはどんなものだろうか。(取材日:2018年7月24日)

「苦手なことを積極的にやっていこうと思っている」

高卒ルーキーにもかかわらず、レギュラーポジションを確保。順調に経験を積んでいる
高卒ルーキーにもかかわらず、レギュラーポジションを確保。順調に経験を積んでいる【写真:森田直樹/アフロスポーツ】

――ここまで(第17節終了時)リーグ戦11試合連続の先発出場と、かなり良いペースですね。


 1年目から試合に出ている自分も想像したりはしていましたが、出られない自分をより想像していた中で、出られるほうの自分になっている今がある。正直、11試合連続スタメンというのは、うれしいですね。


――ポジション的にもイメージはありました?


 4バックのサイドバック(SB)はやっていましたが、3バックのあそこのポジション(ウイングバック)はMFみたいなものなので……。


――試合での登録もMFになっていますね。


 みんな驚きだと思います(笑)。でも、与えられたことを忠実にこなすべきだと思っていますし、期待されているからこそ(その位置で使われるの)だと思うので、その期待に、いや期待以上に応えなければいけないと思っています。


――新たな自分を発見する感覚ですか?


 新たな自分を見つけるというよりは、常に新たな課題を見つけるような感覚ですね。課題が見つかり、それを修正していこうという繰り返しです。最初に起用されたときより成長しているところもあると思いますし、確実にちょっとずつは成長していると思っています。


――縦への突破など、これまでそれほどイメージのなかったプレーも出せていると思います。


 いや、まだまだ回数が足りないです。でもそういう積極性を出していかないと、成長しないと思うので。消極的になって、苦手なことを全然やらないようだと、たぶん一生そこが成長しなくなる。そういう意味で、確かに苦手なことを積極的にやっていこうとは思っていますね。


――監督が代わった中でも試合に出続けられているのは、自信になると思います。


 大槻(毅)さんが監督になったから出られるようになったと思いますし、だから監督が代わるときには不安もありました。今でも不安はいっぱいですけれど、それでも試合に出させてもらっているので、本当に頑張るしかないです。

ユース時代、大槻監督から教えられた「謙虚さ」

当時、ユースの監督だった大槻コーチからは、「謙虚さ」を忘れないよう言われていたという
当時、ユースの監督だった大槻コーチからは、「謙虚さ」を忘れないよう言われていたという【写真:築田 純/アフロスポーツ】

 最近の橋岡しか見たことのない人にとっては意外かもしれないが、もともと中央のDF中心に育成されてきた選手である。ただ、右SBで起用されていた時期もあり、中学3年次に彼を大抜てきした大槻コーチ(当時ユース監督)は、その時点で「将来はサイドかもしれない」と、その可能性を見通していた。少し、その頃を振り返ってみたい。


――サッカーを始めたのはお兄さんの影響ですか?


 そうですね。兄がやっていたので「僕も」と。もし兄が野球をやっていたら、野球をやっていたと思います。


――お父さんは野球選手だったんですよね?


 はい、野球が大好きでしたね。実際、兄はちょっと野球の練習へ行ったりもしていて、「野球をやろうかな」と言っていた時期もあったんですよ。


――お母さんは陸上選手だったそうですが。


 自分も小学校3、4、5、6年と埼玉県の陸上大会に出ています。100メートル走の記録は3、4年のときは1位でした。でも5、6年生のときは加藤寛悠くんという全国トップレベルの選手がいて、その子にギリギリ負けてしまい、2年連続2位でした(6年次の記録は13秒14)。だから陸上はそこまででしたね。


――浦和ユースに入ったのは、やっぱり浦和でやっていたから?


 兄がレッズに行っていたのが大きかったと思います。正直言うと、僕もそんなに他のチームのことを知らなかったですし(笑)。そもそもレッズからしか「練習に参加してくれ」という話もありませんでした。他から話が来ていても、僕はレッズを選んだと思いますけど(笑)。兄が行ってから、「僕も絶対にレッズへ入りたい!」と思ってやっていました。


――やっぱりお兄さんの影響が大きいんですね。


 兄が(大宮)アルディージャに入っていたら、僕もそうなっているということですからね。でも、僕はレッズしか話が来なかったから、結局レッズだったのかな(笑)。


――中学3年生のときにユースへ飛び級したおかげで、3個上だから普通は入れ替わりになってしまうお兄さんと一緒にプレーすることになりました。


 小学校のころ、付き添いで兄の試合に行ったときに「1試合だけ出てみろ」と言われて(一緒に試合に)出たことはありましたが、ちゃんと一緒に出るのはそれが初めてでしたね。親は想像もしていなかったと思います。


――ましてや浦和で、ですものね。そして、ついに(ユース監督だった)大槻さんに出会ったわけですね。


 中3の僕をユースのレギュラーで使うというのは、あの人にしかできない判断だったと思います。本当に、本当に感謝してもしきれません。


――怒られたことも?


 いやあ、あります、あります。「謙虚さ」というのをずっと言われていたので、僕が代表から帰ってきてプレーが雑になったりしたときには、「何か勘違いしているんじゃないのか?」と言われましたね。


――怖い(笑)。


 はい(笑)。


――トップでも一緒になるとは思いもしなかったのでは?


 まさか大槻さんまで(トップチームに)来るとは思っていませんでした。本当に心強かったです。もちろん誰が監督であっても、いつ何があるか分からないし、誰がけがをするかも分からない。いつ出てもいいように準備はしていました。常に良い準備をしておこうと思っていたからこそ、だと思います。

川端暁彦
川端暁彦

1979年8月7日生まれ。大分県中津市出身。フリーライターとして取材活動を始め、2004年10月に創刊したサッカー専門新聞『エル・ゴラッソ』の創刊事業に参画。創刊後は同紙の記者、編集者として活動し、2010年からは3年にわたって編集長を務めた。2013年8月からフリーランスとしての活動を再開。古巣の『エル・ゴラッソ』を始め、『スポーツナビ』『サッカーキング』『サッカー批評』『サッカーマガジンZONE』『月刊ローソンチケット』など各種媒体にライターとして寄稿するほか、フリーの編集者としての活動も行っている。2014年3月に『Jの新人』(東邦出版)を刊行

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