連載:東京五輪世代、過去と今と可能性

注目すべき中村敬斗の「成長力」  東京五輪世代、過去と今と可能性(9)

川端暁彦

三菱養和SCユースからガンバ大阪に加入した中村敬斗に話を聞いた 【川端暁彦】

 東京五輪世代の「これまで」と「未来」の双方を掘り下げていく当連載。第9回に登場するのは、今季、都内の名門クラブである三菱養和SCユースからガンバ大阪に加入した中村敬斗。「高校3年生」としてのシーズンをあえて過ごすことなく、プロ入りを選び、今年のJ1リーグで開幕戦から17歳でピッチに立った。「4歳の時には自然とサッカーボールを蹴っていた」と笑う、サッカー愛の塊である若武者の素顔に迫ってみた。(取材日:2018年4月27日)

小学校時代に下した「珍しい決断」

養和時代の中村。同じ少年団の先輩からの誘いもあり、養和入りを決めたそう 【川端暁彦】

――中村選手を初めて見たのは5年前、巣鴨で行われた養和8人制大会だったと思います。

 ああ、あの時ですか。すごく調子が良かったですよね(笑)。予選リーグでは(3試合中)2試合に出て、FC東京深川とやって4点を1人で入れて、浦和レッズからも4点取りました。

――すぐに「あの子は何者ですか?」と(スタッフの)生方修司さんに聞きにいったのを覚えています。そのとき「前に柏レイソルにいた子なんだよ」と。

 レイソルには小学校の途中から入っていました。元々は普通の少年団です(高野山少年団)。入った最初は良かったんですけれど、途中でサッカーの方針転換があってパスサッカーということになって、段々と自分の中で感じるモノがなくなってしまったんです。最初は飛び級でやれていたのに、最後は同学年の試合でも途中出場という感じで、自分が落ちている感覚もあった。なので、元の少年団に戻ってやり直しました。

――ちょっと珍しい決断ですよね。小学生年代でレイソルはすごくブランドがあるから。

 親からは「せっかくレイソルに入ったんだから、よく考えたら」と言われました。親はそういうブランドも気にしていたのかもしれませんが、(自分は)子どもだったので(笑)。

――いや、楽しくないし、と?

 行きたくなくなってしまっていたんです、サッカーに。で、僕自身のレベルも落ちてきていた。これでいいのかな、と思っていました。少年団に戻って、本当にサッカーの楽しさを思い出せました。で、中学は養和(SC)に。(同じ少年団の)先輩の誘いもあって養和に入ったという感じです。

「最高だった」養和での5年間と日本代表

森山監督率いる年代別日本代表での経験は、中村にとってかけがえのないものになった 【写真:YUTAKA/アフロスポーツ】

 千葉県の小学生のエリートコースに乗っかったと思われる中で、中村はあえて違う道を選んだ。「楽しくなかった」というシンプルな理由だが、結果として「楽しすぎた」と笑顔で語れる“マイクラブ”と出会うことになったのは幸運だった。「好きこそものの上手なれ」の言葉どおり、中村はそこでサッカー選手としての自分を研ぎ澄ませていくことになる。

――出身の千葉県・我孫子から三菱養和(巣鴨)は遠くなかったですか?

 遠いです。でも、電車で乗り換え1回ですからね。ジェフ(千葉)も可能性があったんですけれど、(練習場のある)蘇我に行くのは乗り換えが大変で時間も掛かるので。東京に出る方が楽なんですよ。養和は練習に参加したときも楽しかったので。

――養和での5年間はどうでしたか?

 本当に最高でしたね。楽しかったし、あっという間でした。中学生の時は練習が終わって、ずっとシュート練習をGKとやっていて。DFと1対1とかを永遠にやっていた気がします(笑)。で、高校になってから少し考えて練習するようにして。DFをつけてGKもつけてという感じで、楽しかったです。

――養和で森山佳郎監督率いる年代別日本代表にも呼ばれるようになりました。

 森山さんは最初に養和のコーチに「いいものを持っているけれど、足りないものが多すぎる」と言ってくれて、コーチも自分にそれを伝えてくれた。そういう課題を自分に突き付けてくれるチームでしたね。オフ(・ザ・ボール)の動きもそうですし、守備も徹底的に言われました。それで何とか残っていったという感覚です。

――代表での2年半で相当変わったように見えます。

 まるで変わりましたね。やっぱり、街クラブにいた選手だから変われたのかなとも思っていて。J(クラブ)だったら多分、オフの動きとかはもっと早くにうまくなっていたと思います。こういう状況だったら、こう動くとか詳しく教えてもらえていた。でも僕はそれがなかったおかげで、必死に自分で考えるしかなかったし、だから成長したと思います。

 自分でプロのビデオを見て、ずっとノートを書いて「ああ、この動きだな」とか。あと同じ代表の宮代大聖(川崎フロンターレ)がオフ・ザ・ボールの引き出しがとにかくうまいと言われていたので、とにかく大聖の動きを見て、動き出しのイメージを作って練習していました。頭の中でやって、実践するみたいな。(パスが)思うように出ない場面もあったんですけれど。常にそういう意識を持って動き出すことは繰り返しました。

――プロでは誰を参考にしていたのですか?

 当時はユベントスが2トップだったので、(ゴンサロ・)イグアインと(マリオ・)マンジュキッチかな? とにかく2トップの関係性みたいなものをずっとビデオで見て、その連動性とかを、実際に試してみてという感じです。

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著者プロフィール

1979年8月7日生まれ。大分県中津市出身。フリーライターとして取材活動を始め、2004年10月に創刊したサッカー専門新聞『エル・ゴラッソ』の創刊事業に参画。創刊後は同紙の記者、編集者として活動し、2010年からは3年にわたって編集長を務めた。2013年8月からフリーランスとしての活動を再開。古巣の『エル・ゴラッソ』をはじめ、『スポーツナビ』『サッカーキング』『フットボリスタ』『サッカークリニック』『GOAL』など各種媒体にライターとして寄稿するほか、フリーの編集者としての活動も行っている。近著に『2050年W杯 日本代表優勝プラン』(ソル・メディア)がある

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