自分に一番合う環境を整えてきたい 女子競歩・藤井菜々子インタビュー

日本陸上競技連盟

「ダイヤモンドアスリート」第4期の選手である女子競歩の藤井菜々子にインタビュー 【写真は共同】

 日本陸上競技連盟が実施する「ダイヤモンドアスリート」制度は、2020年東京五輪とその後の国際競技会での活躍が期待できる次世代の競技者の強化育成を目的としている。単に対象競技者の競技力向上だけを目指すのではなく、アスリートとして世界を舞台に活躍していくなかで、豊かな人間性とコミュニケーション能力を身につけ、「国際人」として日本および国際社会の発展に寄与する人材に育つことを期して、14−15年シーズンに創設された。

 すでに3期が終了し、これまで9人が修了。昨年11月からは継続・新規含め全11人が認定され、第4期がスタートした。今回は第4期となる「17−18認定アスリート」へのインタビューを行い、女子競歩の藤井菜々子(北九州市立高卒、エディオン)に話を聞いた。

取材・構成:児玉育美(JAAFメディアチーム)

小3からクラブチームに所属 中学時代は中距離に取り組む

――陸上競技は小さいころから始めたのですか?

 クラブチームに入って練習するようになったのは小学3年生のときからです。もともと走るのが好きで、1年生、2年生のときから校内のマラソン大会で優勝していました。当時は、山口県の光市に住んでいたのですが、友達のお父さんが市民ランナーで、「陸上クラブのチームに入ったら?」と声をかけていただき、その友達と一緒に通うようになりました。

――クラブチームの名前は?

「光スポーツ少年団」です。

――藤井選手は中学は福岡ですよね?

 山口には転勤で一時期住んでいて、その後、小学4年の3学期くらいに福岡に戻ることになり小学校を転校しました。そこからは福岡です。

――福岡でもクラブチームに?

 そうです。「那珂川ジュニアランナーズ」という小学生のクラブチームに入りました。

――小学校のころは、どの種目をやっていたのですか?

 短距離と中距離をやっていて、トラック種目では100メートルや800メートルリレー(4×200メートルリレー)もやっていましたし、クロスカントリーも小学生のころから走っていました。中学校に上がってからは中距離が中心になりました。

――中学校では陸上部に入って800メートルや1500メートルに取り組んだわけですね。3年生のときには、福岡県中学総体 、福岡県中学通信ともに1500メートルで6位入賞しています。記録は、どのくらいだったのでしょうか?

 800メートルは2分17秒台、1500メートルは4分39秒90です。中学のときは、全中(全日本中学校選手権)を目標にしていたのですが、標準記録突破まであと0.5秒足りなくて……。

――中学時代は何か印象に残っていることはありますか?

 練習は、けっこうきつかったですね。中学のときもクラブチームに入っていて、学校の練習とは別に2つくらい行っていました。平日は中学の練習で、水曜日だけ違うところに行かせてもらっていて、土・日はまた違うところに行ってというふうに、いろいろなところに行っていました。

――福岡では、学校の部活動と並行してクラブチームに入っているケースは多いのですか?

 そうですね。私の友達や知り合いも、土・日は小学校のときのクラブチームに行って練習したりしていました。割と多かったように思います。

――そのころから、短い距離よりは長めの距離を走るようになっていたのですか?

 はい。基本、長距離が好きだったので。

駅伝で都大路目指すも故障がきっかけで競歩に

――15年に高校へ進学し、福岡・北九州市立高といえば、長距離の強豪校です。

 北九州市立高の監督とつながりのある方から勧めてもらいました。強い高校だったし、都大路も走りたいと思っていたので、駅伝を走りたくて市立高に入学しました。

――北九州市立高は、藤井選手が1年生のとき、全国高校駅伝に地区代表として出場し、8位入賞を果たしていますね。藤井選手も京都に行きましたか?

 はい、補欠でしたが。

――では、「来年、再来年こそは、自分も都大路を走るぞ」という気持ちだったのでしょうか?

 そんな気持ちで練習していました。

――ただ高校1年の2月に左すねを疲労骨折し、そこからのリハビリを兼ねて競歩を始めることになったそうですね。

 そうなんです。故障したら走れない分、何かほかのトレーニングをしないといけないと思い、チームには先輩や同級生で何人か競歩をやっていて、プールとかバイクの練習だけでなく、歩くことで心肺能力を高めようと後ろにつかせてもらったのが最初です。

――ケガからの回復時期にやっていたのですか?

 練習といっても、30分くらい歩いて、あとは補強したりといった程度でした。ポイント練習などは一切やっていないです。本当に歩く基本を教えてもらったぐらいでした。

――そこからインターハイ路線を競歩で挑戦することになったのは?

 私が故障しているときにも、練習を見ていた監督の荻原(知紀)先生から「歩けるんじゃないか?」と言われて。でも、私は走りたかったので、「競歩は……」と言っていたのですが、ケガが治っても自分が出られる種目がありませんでした。特に、3000メートルは、チームのなかでも速い人が出ますし 、私は故障上がりで練習も全然積めていなかったので、先生から「県大会に行ければいいから、体力づくりのつもりで1回出てみては」と言われて、「(北部ブロック)予選だけ出ます」という感じで出ることにしました。

――それが初レースとなった5月の北部ブロック予選会ですね。25分28秒76で2位でした。

 そのときは、チームメイトが3人いて、1人の選手についていったのですが、けっこう楽で、審判からも注意されなかったので、「もしかしたら、行けるのかな?」という感じでした。取りあえず福岡県大会に行けることになってよかったなという気持ちが強かったです。

――そして2週間後の県大会では24分38秒27で優勝。さらに2週間後の北九州大会も24分10秒93で制しました。

 試合に出るたびに、どんどんタイムが縮まっていましたね。

――インターハイでは、23分17秒23をマークして、とうとう日本一に。このときは、どのあたりを目指していたのですか?

 入賞を目標にしていました。北九州大会で勝ってからは、入賞したいなと思うようになっていたので。インターハイでは、予選に出たときもすごく楽だったので「これは行けるな」と思いました。先生からは「優勝できるかもしれない」と言われていたのですが、でも、私自身は8位入賞を意識していたので、まさか優勝するとは思っていませんでした(笑)。

――いきなり23分台に突入する記録で、関係者の方々を驚かせました。決勝のレースは、どんな気持ちで臨んでいたのですか?

 試合中はけっこう冷静で、計算しながら歩いていました。「このペースだと、どのくらいで行けるかな」という感じで。いろいろ考えながら歩けていたので、たぶん余裕があったのだと思います。

――走ることで考えたらペースは遅いからでしょうか?

 そうなんです。そのころは長距離と並行してやっていたので、「体力とかは自分が一番ある」という自信だけはありました(笑)。

――3000メートルで行われる高校選抜でも優勝。そして国体は、学生・社会人選手に交じって、成年女子5000メートルに出場し、リオデジャネイロ五輪代表の岡田久美子選手(ビックカメラ)に次いで2位でフィニッシュ。インターハイでマークした自己記録をさらに1分以上縮め、一気に22分台に突入する22分14秒52をマーク。この記録は、高2最高であるとともに高校歴代でも3位となる好記録でした。

 国体で出た記録が高2最高と聞いたときは、びっくりしたのですが、その辺りから、「ああ、競歩という道もあるのかな」と思うようになってきましたね。インターハイに優勝した時点では、「私は長距離だから、長距離がベース」と思っていたのですが、国体が終わって、岡田さんとも話したりしたことで、「世界を目指してみたいな」という気持ちが出てきました。少しずつでしたが、そういう心変わりがありましたね。

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