18年は「勝ちに行くシーズンに」 棒高跳・江島雅紀インタビュー
「ダイヤモンドアスリート」第4期の選手である棒高跳の江島雅紀にインタビュー 【写真:YUTAKA/アフロスポーツ】
日本陸上競技連盟が実施する「ダイヤモンドアスリート」制度は、2020年東京五輪とその後の国際競技会での活躍が期待できる次世代の競技者の強化育成を目的としている。単に対象競技者の競技力向上だけを目指すのではなく、アスリートとして世界を舞台に活躍していくなかで、豊かな人間性とコミュニケーション能力を身につけ、「国際人」として日本および国際社会の発展に寄与する人材に育つことを期して、14−15年シーズンに創設された。
すでに3期が終了し、これまで9人が修了。昨年11月からは継続・新規含め全11人が認定され、第4期がスタートした。今回は第4期となる「17−18認定アスリート」へのインタビューを行い、棒高跳の江島雅紀(日本大)に話を聞いた。
取材・構成:児玉育美(JAAFメディアチーム)
すでに3期が終了し、これまで9人が修了。昨年11月からは継続・新規含め全11人が認定され、第4期がスタートした。今回は第4期となる「17−18認定アスリート」へのインタビューを行い、棒高跳の江島雅紀(日本大)に話を聞いた。
取材・構成:児玉育美(JAAFメディアチーム)
兄の跳ぶ姿を見て小学生のころから憧れた棒高跳
――陸上競技は、お兄さんの影響で始めたそうですね。
はい。2歳上の兄が棒高跳をやっていて、小学生のころから兄の試合を見に行っていました。中学に行ったら、僕も絶対にやってみたいと思っていました。
――棒高跳はピットの近くで見ていると迫力があるしかっこいいですよね。
そうなんです。もう、やりたくてやりたくて(笑)。目立ちたいタイプなので、やるならど派手な競技をと思っていました(笑)。
――実際にやってみてどうでしたか?
器用なほうだったので、最初からポールが曲がったのですが、そのあとの身体をどう動かせばいいか分からず、制御不能になってしまい、着地したときに履いていたスパイクのピンが片方の脚に刺さって、縫うようなケガをしたのが最初です。
――なんと! 怖くならなかったですか?
「これが棒高なんだ」と感じました。だから恐怖心はなかったのでしょうね、きっと。そこで怖いと思ったらやっていなかったと思うので。
――中学の陸上部に所属するとともに、クラブチームにも入っていました。
はい。平井勇気さんが監督を務めるYPVC(Yokohama Pole Vault Club)に入っていました。秋から受け入れが始まるので、正式には中1の10月くらいから行くようになりました。
――部活動、クラブチーム、それぞれのいいところを経験できましたか?
そうですね。どちらにも良さがあり、とても楽しかったです。クラブチームでは高校生も大学生もいて。最初は棒高跳の知識がなかったので、率先して聞きに行って、教えていただきました。
――そうして始まった中学生活でしたが、最終学年の3年時の全日本中学校選手権は、ケガのために予選落ち。直前の関東中学でランキングトップとなる4メートル50で制していることを考えると、悔しさが募る結果だったのでは?
はい。予選の直前練習で肉離れしてしまいました。テーピングをして臨んだのですが、予選通過記録が跳べず決勝には進めませんでした。優勝記録が4メートル45だったので、なおさら悔しかったですね。それが中学時代、一番悔しかったことです。
はい。2歳上の兄が棒高跳をやっていて、小学生のころから兄の試合を見に行っていました。中学に行ったら、僕も絶対にやってみたいと思っていました。
――棒高跳はピットの近くで見ていると迫力があるしかっこいいですよね。
そうなんです。もう、やりたくてやりたくて(笑)。目立ちたいタイプなので、やるならど派手な競技をと思っていました(笑)。
――実際にやってみてどうでしたか?
器用なほうだったので、最初からポールが曲がったのですが、そのあとの身体をどう動かせばいいか分からず、制御不能になってしまい、着地したときに履いていたスパイクのピンが片方の脚に刺さって、縫うようなケガをしたのが最初です。
――なんと! 怖くならなかったですか?
「これが棒高なんだ」と感じました。だから恐怖心はなかったのでしょうね、きっと。そこで怖いと思ったらやっていなかったと思うので。
――中学の陸上部に所属するとともに、クラブチームにも入っていました。
はい。平井勇気さんが監督を務めるYPVC(Yokohama Pole Vault Club)に入っていました。秋から受け入れが始まるので、正式には中1の10月くらいから行くようになりました。
――部活動、クラブチーム、それぞれのいいところを経験できましたか?
そうですね。どちらにも良さがあり、とても楽しかったです。クラブチームでは高校生も大学生もいて。最初は棒高跳の知識がなかったので、率先して聞きに行って、教えていただきました。
――そうして始まった中学生活でしたが、最終学年の3年時の全日本中学校選手権は、ケガのために予選落ち。直前の関東中学でランキングトップとなる4メートル50で制していることを考えると、悔しさが募る結果だったのでは?
はい。予選の直前練習で肉離れしてしまいました。テーピングをして臨んだのですが、予選通過記録が跳べず決勝には進めませんでした。優勝記録が4メートル45だったので、なおさら悔しかったですね。それが中学時代、一番悔しかったことです。
一気にトップ競技者へと駆け上った高校時代
――14年に神奈川の荏田高へ進学。YPVCで練習するという環境を変えずに高校生活をスタートさせました。
そうです。でも、最初の試合は、人生初の記録なし。入学直後にあった横浜市の記録会だったのですが、冬場の練習もしっかりできていて、4月から自己ベストを出していこうと思って狙っていたのに、それが空回りした感じでした。
――ただ、そこには身体の急激な成長も影響していた?
身長が急に伸びて、身体つきもよくなり、ポールが全部流れていました。そのことは、僕も平井さんも予想外でした。でも、そのあとは、すぐに4メートル70、4メートル80が跳べました。なので目標にしていた3年連続インターハイ出場が実現できるかなと考えていたのですが、南関東大会で4メートル80の自己ベストをマークしたものの、試技数差で7位(※6位までがインターハイ出場)。レベルが非常に高かったという意味では不運だったのですが、自分はまだまだ甘いなと思いましたね。
――その2週間後に、初の5メートル台となる5メートル05をクリア。さらに秋の関東高校新人では、5メートル20まで記録を伸ばしました。そのときは、どんな気持ちだったのでしょうか?
5メートル15くらいは跳べても、まさか(5メートル)20まで行けるとは思っていなかったので、翌年の日本選手権の標準記録(当時)も突破する高1最高記録をつくれたことが不思議に思えましたね。
――そして、高校2年時には、さらに大きく記録を伸ばしていきました。
神奈川県大会で5メートル26の県高校新記録を出して、南関東大会で5メートル32の高2最高(=ユース日本最高)をクリアすることができました。実は記録ということでは、僕のなかで中学のころから笹瀬弘樹さん(当時の中学記録、高校記録保持者)の名前が常に頭にあったんです。中学記録は無理でしたが、高校学年別の最高記録も全部そうだったので。すべて超えたいと思っていました。
――6月の段階で、それをクリア。快調だったわけですね。
でも、早い段階でこの高さを跳べたことで、変な欲が出てしまいました。「もっとすごい結果を出せるのではないか」と勝手に思ってしまって。それなのに、ランキングトップで臨んだ世界ユース(現U18世界選手権)は6位、インターハイも11位と、「今、やるべきこと」が全然できず不本意な結果に……。そのため、インターハイ後は1カ月くらい本当にやる気を失って、平井さんと衝突したりもしました。ただ、自分で行けると思っていた県の新人大会が4メートル80という記録に終わって、自分の考え方が間違っていたことに気づきました。このままじゃダメだと反省して、平井さんに謝り、基礎からやり直しました。
――欲が出たことで、自分を見失ってしまっていたのですね。
自分が何を求めているのか分からなくなっていましたね。親にも「記録や結果はいいから、まずは楽しんでこい」と言われて……。そこで考えをあらためることができたから、国体(5メートル00)で立て直すことができ、日本ユース(5メートル33)、関東高校新人(5メートル36)とベストを更新することができたのだと思います。
――以降の大会では、試合を楽しんでいるように感じていました。それを自分自身で気づいて、考えや行動をあらためることができたのは、大きなターニングポイントとなったのでは?
そこで変わったように思います。また、振り返ってみると、うまくいかなかったときは、大きな目標だけを見ていたことにも気づきました。なので、小さな目標をたくさん立てて、それを1つずつクリアしていくようにしました。
――気がついたら大きな目標をクリアしていたと?
はい。それがあったから、3年生のときにも高校記録を3回更新できたのだと思います。
そうです。でも、最初の試合は、人生初の記録なし。入学直後にあった横浜市の記録会だったのですが、冬場の練習もしっかりできていて、4月から自己ベストを出していこうと思って狙っていたのに、それが空回りした感じでした。
――ただ、そこには身体の急激な成長も影響していた?
身長が急に伸びて、身体つきもよくなり、ポールが全部流れていました。そのことは、僕も平井さんも予想外でした。でも、そのあとは、すぐに4メートル70、4メートル80が跳べました。なので目標にしていた3年連続インターハイ出場が実現できるかなと考えていたのですが、南関東大会で4メートル80の自己ベストをマークしたものの、試技数差で7位(※6位までがインターハイ出場)。レベルが非常に高かったという意味では不運だったのですが、自分はまだまだ甘いなと思いましたね。
――その2週間後に、初の5メートル台となる5メートル05をクリア。さらに秋の関東高校新人では、5メートル20まで記録を伸ばしました。そのときは、どんな気持ちだったのでしょうか?
5メートル15くらいは跳べても、まさか(5メートル)20まで行けるとは思っていなかったので、翌年の日本選手権の標準記録(当時)も突破する高1最高記録をつくれたことが不思議に思えましたね。
――そして、高校2年時には、さらに大きく記録を伸ばしていきました。
神奈川県大会で5メートル26の県高校新記録を出して、南関東大会で5メートル32の高2最高(=ユース日本最高)をクリアすることができました。実は記録ということでは、僕のなかで中学のころから笹瀬弘樹さん(当時の中学記録、高校記録保持者)の名前が常に頭にあったんです。中学記録は無理でしたが、高校学年別の最高記録も全部そうだったので。すべて超えたいと思っていました。
――6月の段階で、それをクリア。快調だったわけですね。
でも、早い段階でこの高さを跳べたことで、変な欲が出てしまいました。「もっとすごい結果を出せるのではないか」と勝手に思ってしまって。それなのに、ランキングトップで臨んだ世界ユース(現U18世界選手権)は6位、インターハイも11位と、「今、やるべきこと」が全然できず不本意な結果に……。そのため、インターハイ後は1カ月くらい本当にやる気を失って、平井さんと衝突したりもしました。ただ、自分で行けると思っていた県の新人大会が4メートル80という記録に終わって、自分の考え方が間違っていたことに気づきました。このままじゃダメだと反省して、平井さんに謝り、基礎からやり直しました。
――欲が出たことで、自分を見失ってしまっていたのですね。
自分が何を求めているのか分からなくなっていましたね。親にも「記録や結果はいいから、まずは楽しんでこい」と言われて……。そこで考えをあらためることができたから、国体(5メートル00)で立て直すことができ、日本ユース(5メートル33)、関東高校新人(5メートル36)とベストを更新することができたのだと思います。
――以降の大会では、試合を楽しんでいるように感じていました。それを自分自身で気づいて、考えや行動をあらためることができたのは、大きなターニングポイントとなったのでは?
そこで変わったように思います。また、振り返ってみると、うまくいかなかったときは、大きな目標だけを見ていたことにも気づきました。なので、小さな目標をたくさん立てて、それを1つずつクリアしていくようにしました。
――気がついたら大きな目標をクリアしていたと?
はい。それがあったから、3年生のときにも高校記録を3回更新できたのだと思います。