海外を経験した2人が語る、日の丸の意味 車いすバスケ藤本怜央×畠山愛理<対談>

構成:宮崎恵理
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提供:東京都

車いすバスケと新体操の共通点

中学3年で新体操日本代表になった畠山さん、ロシアと日本を行き来して競技力を高めていった 【赤坂直人/スポーツナビ】

――そんなお二人が日本代表、世界に意識が向いたのはいつですか?

畠山 小学2年で初めて大会に出たのですが、決勝に進出すると東京・代々木の国立競技場でたった一人で演技ができる。夢みたいってすごく思って、一人で踊れることが目標でした。小学6年生の時に、小学生の全国大会で6位になれたんですね。上位にいけたことで単純に日本の次は世界だ、それならオリンピックだと思ったのが世界を見つめた最初でした。

藤本 僕は、車いすバスケを始めて1年で代表チームに招集されたんです。19歳で始めて20歳の時に強化指定選手になりました。

畠山 私は中学3年でオーディションを受けてフェアリージャパンに入ったんですが、その3日後にはロシアに渡りました。当時はまだ1回、国際電話をかけるのも高額。パソコンもなかったし、手紙を何度も読み返してメソメソ泣いていましたね。新体操日本代表は1カ月ロシア、1カ月日本を繰り返すので、1年の半分はロシアにいました。ロシアは新体操の強豪国。自分よりも年齢が下の選手でも私よりレベルが高い。そういう選手を見ていると、正直世界で戦えるのだろうかという不安もありました。

藤本 15歳でその生活はすごいですね。僕は、2012年から日本代表のキャプテンを務めるようになりました。それまでは頼れる先輩がいたのですが、自分でチームを引っ張っていかなくてはいけなくなったんです。この頃から韓国が急成長してきて、14年の世界選手権で韓国に負けた。その時に、敗因は自分の成長が止まってしまったからだと痛感して、僕はドイツに行ってプレーすることを決意したんです。

畠山 日本を出ることで、自分を客観視することもできますよね。

藤本 世界のプレーのトレンド、トレーニング環境、スポーツとしての文化。そういうものを本当に肌で知ることになりました。最初の半年間、ドイツで死ぬかと思いましたよ。

畠山 どんなことで死ぬかと?

藤本 日本とは桁違いの練習量。それに毎週リーグ戦がある。日本ではせいぜい月1回試合がある程度でしたが、ドイツでは毎週末試合がある。コンディションを上げて試合で出力して、出し切って落としてまた上げて、というのをほぼ半年繰り返すんです。新人選手かよ!って突っ込みたくなるくらいでしたけど。でも、これまでの競技人生で味わったことがないくらい中身が濃い生活なんですよね。

畠山 海外に行くとフィジカルの差を感じますよね。その辺はどうカバーしているんですか?

藤本 駆け引きと戦略、戦術で勝負です。体格は持って生まれたもの。でも、日本人はそれに勝つための技を磨いている。あうんの呼吸、コミュニケーションですよね。1ミリのズレも許さないような几帳面さ、一瞬の呼吸などは秀でているんです。

畠山 ああ、そういうところは新体操と共通点がありますね。新体操団体も5人で合わせるので、呼吸とかコミュニケーションはとても大事なんです。

藤本 ロシアでは、どちらにいらしたのですか?

畠山 サンクトペテルブルクです。エルミタージュ美術館が有名な、奇麗な町です。これは新体操ならではなのだと思いますが、先生の方針もあって練習以外の時間に美しいものに触れるようにして、心を豊かにしなさいということだったので、オフの時間に美術館に行ったりクラシックバレエを見に行ったりしました。ロシアに行ったことは技術的な習得だけではないものが大きかったですね。

藤本 ヨーロッパらしいところに行くのは楽しみでもありますよね。当時、同じチームにいたもう一人の日本人選手と一緒にユーロリーグで訪れたオーストリアで文化に浸ろうと、二人で有名な作曲家の博物館を巡ったりしましたよ。あまりに多すぎて、だんだんお腹いっぱいになっちゃいましたけど(笑)。

――そんな海外での経験を経て、どう成長してきたと感じていますか?

畠山 私は、ロシアに行く前まではとにかくミスをしない、大会でも得点が高ければそれでいい、と思っていたんです。でも、ロシアに行ったら新体操はやっぱり芸術としての側面が高いスポーツだと実感したんですね。「伝える演技をしよう」と考えが変わりました。見ている人が笑顔になったり、悲しい曲調の時には悲しいイメージが観客に伝わるように。

藤本 まったくスポーツが違うから、興味深いですね。バスケはとにかく最後に1点多ければ勝つ。日本人って、結果以上に内容を重視する傾向がある。でも、海外選手はもっとシンプルにこのシュートが決まれば2得点できると考える。シューターのメンタリティとか、シュートの決定率などの部分でハッと気づかされたところがありました。

目標はブレずに「金メダル」

ロンドンパラリンピックが目標を見据えるきっかけになったと話す藤本(写真左) 【写真:Action Images/アフロ】

――オリンピック、パラリンピックでは、どんなことが印象に残っていますか?

畠山 初めてのオリンピックがロンドンなのですが、その1カ月前くらいに選手の一人が練習中にけがをしてしまって、直前でメンバーが変更になってしまったんです。だから、オリンピックの舞台ではけがをした選手や、強化チームで一緒に練習していたけどオリンピックには選出されなかった選手も一緒にマットに立っているような気持ちでした。それはすごく印象に残りましたね。

藤本 僕も、ロンドンパラリンピックが一番印象に残っています。日本は決勝トーナメントに進出できず9、10位決定戦でイタリアと対戦した。日本はイタリアに勝ったけど、僕は途中で退場しているんです。僕の両親がロンドンに応援に来ていて、終わってから父に「何しにここへ来たんだよ」と言われた。ずっと練習に取り組んできたことは両親も知っている。でも、予選も通過できず、負け試合ばかり。メダルを獲得するという目標を、本当に具体的に捉えていなかったのではないか。自己満足でしかなかったのではないか。父にボロクソ言われたことで、はっきりともう一度目標を見据えるきっかけになったんですよ。

車いすバスケは「五感で楽しめる」と話す藤本。畠山さんは「ぜみ、見に行きたい」と現場での再会を約束していた 【赤坂直人/スポーツナビ】

――東京2020に向けて、それぞれ期待すること、目標などをお聞かせください。

藤本 どのパラリンピックでも、目標は常に「金メダル獲得」です。そこはブレずに東京まで突っ走ります。代表選手として自国開催は奇跡に近い。そういうめぐり合わせもあって、やっと本当に目標を達成するチャンスがやって来たという思いが強いです。努力を続けてメダルを獲得して、思いっきり君が代を歌いたいと思っています。

畠山 今回の対談に当たって、改めて車いすバスケの動画を見ましたが、すごく激しい試合ですね。当たった時の音とかもあって、一般のバスケ以上の迫力を感じました。

藤本 体育館、焦げ臭いんですよ。タイヤが急停止した時に焦げたり、アルミフレームから火花が散ったりしますから。結構、五感で楽しめると言われています。

畠山 ぜひ、見に行きたいです。私自身は現役を引退しましたが、東京オリンピック・パラリンピックでは伝える側として関わっていきたいと思っています。選手の努力を、選手目線で伝えられたらと思います。藤本選手、頑張ってくださいね!
■プロフィール
藤本怜央(ふじもと・れお)
1983年、静岡県出身。宮城MAX、SUS所属。小学3年の時に交通事故で右足ひざ下を切断。高校までは義足を装着して一般のバスケットボールに親しんでいたが、高校卒業を機に本格的に車いすバスケットボールを開始。2004年アテネパラリンピックに初出場、北京、ロンドン、リオデジャネイロと4大会連続出場する日本のエース。持ち点は4.5。

畠山愛理(はたけやま・あいり)
1994年、東京都出身。6歳で新体操を始め、中学3年の時に日本代表チーム「フェアリージャパン」のオーディションに合格。17歳でロンドンオリンピックの団体に出場、7位入賞。2015年の世界選手権では団体種目別リボンで銅メダル。16年のリオデジャネイロオリンピックでは団体8位入賞。その後現役を引退し、テレビなど各メディアで活躍中。

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著者プロフィール

東京生まれ。マリンスポーツ専門誌を発行する出版社で、ウインドサーフィン専門誌の編集部勤務を経て、フリーランスライターに。雑誌・書籍などの編集・執筆にたずさわる。得意分野はバレーボール(インドア、ビーチとも)、スキー(特にフリースタイル系)、フィットネス、健康関連。また、パラリンピックなどの障害者スポーツでも取材活動中。日本スポーツプレス協会会員、国際スポーツプレス協会会員。著書に『心眼で射止めた金メダル』『希望をくれた人』。

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