予想外しか起こらないダカールラリー 取材メモで振り返る9000キロの記憶

杉山友輝

シェイクダウン時のゴンサルベス(ホンダ)。痛みで本来のライディングが不可能と判断。悔しさがにじみ出ている 【Honda Racing】

 予想外とは何だろう? でも、予想外のことしか起きないのではないのだろうか。ラリーも、人生も。

 世界一過酷と称される「ダカールラリー」。南米のペルー、ボリビア、アルゼンチンを舞台に行われた2018年大会が閉幕した。

 今回はとにかく過酷だった。実際に完走率は55%と、2台に1台はリタイアした計算だ。取材メモに残る言葉の多くは

「予想外の…」
「予想はしていたけれど…」
「予想をはるかに…」

『J SPORTS』ダカールラリー担当者プロデューサー・スギPこと杉山友輝が見たダカールラリー2018の裏側。1月6日から1月20日(現地時間)まで、日本チームを中心にプレスリリースには載らなかった取材の記録をまとめた。

ペルー編 苦戦した砂の悪魔

はるか遠くまで広がる砂の海、ペルーの砂漠が選手に立ちはだかった。歩くと脚が埋まるほど柔らかい 【写真:杉山友輝】

1月1日 ペルー・リマ到着

「フジモリ元大統領の恩赦情報が伝えられ、市内で暴動が起きているので注意せよ」と会社から指示を受け、緊張のなかリマ入りした。しかし、リマは平穏だった。もっとも、リマに到着したのは2018年になったばかりの、1月1日午前1時。暗い中では街の不穏な雰囲気など知る由もなく、市内はお祭りムードに包まれていた。

 ホテルへ向かうタクシーの中、事前にまとめた資料を開く。赤ペンで大きく書かれていたのは「今回のペルーはヤバい」。選手やチーム関係者、誰に聞いても口をそろえて言う言葉だ。

 ダカールラリーは約2週間に渡って、国をまたいで行うモータースポーツ。約9000キロのコースには砂漠や高地などがあり、コマ図と呼ばれる地図をもとにナビゲーションを行い戦う。ペルーがヤバいのは、その「砂漠」だ。粒子の細かい砂の「大海」と、ナビゲーションの難しさが、選手たちを徹底的に苦しめるだろうと予想されていた。

1月3日 スタート前 リマ市郊外

 ラリー直前に、マシンと選手の最終調整を兼ねて行われるのが、シェイクダウンと呼ばれる最終テストだ。二輪クラスに出場し、優勝を目指す「モンスター・エナジー・ホンダ・チーム(以下ホンダ)」は、リマ市郊外でシェイクダウンを行なった。

 そこで重大な決断が下された。それはエースライダーであり、15年大会準優勝のパウロ・ゴンサルベスの欠場。母国ポルトガルでの直前練習で肩を負傷したゴザンサルベス、このシェイクダウンで2週間のラリーに体が耐えられないと判断された。

 ホンダのチーム代表である本田太一は、ゴンサルベスの状態から逆算し、代わりの選手を準備していた。それがチリの若手ライダー、イグナシオ・コルネホだった。ダカールラリー参戦経験はあるものの、22歳の無名の若者にワークスチームのライダーとしての重責がのしかかる。この時、彼の活躍を期待しているものはいなかった。最終盤、予想は覆される。

1月4日 スタート前 リマ市内 車検会場

「いやもう、大変でしたよ。みんなロストバゲージですよ」

 車検会場前で、三浦昂は新年の挨拶よりも先に苦笑いを浮かべた。10個近い荷物が、日本からの乗り継ぎ便で無くなってしまったのだという。

 三浦は四輪市販車部門に2台で出場する「チームランドクルーザー・トヨタオートボデー(以下TLC)」のドライバーで、トヨタ車体の社員でもある。サラリーマンをしながらのラリー活動、会社では事務仕事も山のようにある。一般的にドライバーはフリーランスで、各ラリーごとの契約となるため三浦のような「社員ドライバー」の存在は珍しい。

 ドライバーの荷物はヘルメットや耐火性能のあるレーシングスーツなど、どこでも調達できるものではない。

「まあ、こんなこともあろうかと予想して、レーシングスーツとヘルメットは手荷物にしていたんですよ」

 その後ほどなくして、荷物が見つかったとの一報が入る。胸をなでおろした三浦は、TLCのもう1台のドライバー、クリスチャン・ラビエルと車検に向かって行った。

1月6日 スタート当日ステージ1(リマ〜ピスコ)

 4時に起床し、われわれの取材の相棒であるプレスカー「J SPORTS号」でセレモニアルスタートの軍事施設に向かう。J SPORTS号のドライバーは大野晴嗣カメラマン。このラリーが撮りたくて撮影業界に入り30年。広告映像を撮り続けるかたわら、ダカールラリー取材も勢力的に行ってきた。

 車のドリンクホルダーに刺したのは、黄色いクエン酸ドリンク。17年大会は、途中のボリビアで重い高山病になり入院。後半はほとんど取材できなかった。18年はその借りをしっかりと返したい、そんな本人の思いを察して会社の女性が「山ほど」のクエン酸ドリンク粉末を持たせてくれたのだと言う。

 華やかなセレモニアルスタートを撮影し、ピスコサワーで有名な「ピスコ」へ移動。

「今年は予想していたほど、暑くないから助かるね」

 17年大会、スタート地のパラグアイは40度近い酷暑が続いた。それで体調を崩したことが高山病の一因と考える大野、ラリー前半の取材でいかに疲れを溜めないでボリビアの高地に乗り込むかを、周到に考えていた。

1月7日 ステージ2 (ピスコ周回コース)

 日野チームスガワラ(以下、日野)は、今大会で35回連続出場記録を樹立したダカールの鉄人こと菅原義正(1号車ドライバー)と、次男の照仁(2号車ドライバー)で参戦する伝統あるチームだ。ダカールラリーを「知り尽くしている」といっても、言い過ぎでは無いだろう。

 関係者は皆、今年も義正はダカールラリーを完走し、照仁は排気量10リットル未満クラス9連覇を達成するだろうと思っていた。疑いはなかった。

 しかしその予想はラリー2日目にして、あっさりと覆される。取材メモには克明に事態が記されていた。

16:00 義正1号車から砂漠で身動きが取れないと入電。
20:00 状況は悪化。119キロ付近で転倒寸前、救出を待つ。
21:00 チーム内でミーティング、リタイアの可能性の話。ここ数年で見たことのない話し合い。デッドタイムを決める。この時間でも、48台のトラックが出て、19台しかゴールしていない。

1月8日 ステージ3(ピスコ〜サン・ファン・デ・マルコナ)

日野の1号車は砂にはまり、身動きがとれなくなった 【日本レーシングマネージメント】

 日が変わっても取材メモには経緯が続く。

3:00 1号車から入電。引き続き身動きが取れない、はまったまま。ハンドル切れず。変速機も故障中。チームのアシスタント車両の助けを待つ。
5:30 アシスタント車両、メカニック3人を乗せて救援に出発。
6:30 J SPORTS号、キャンプ地発。行かねばならない、残念!

 チームも、われわれも次のキャンプ地であるサン・ファン・デ・マルコナへ向けて500キロを移動しなくてはならない。そして私は到着後すぐに、東京のJ SPORTSへ取材映像を伝送しなくてはならない。旅をしながら競技をするのが、ダカールラリー。日野は照仁がドライブする2号車は問題なく、8日の競技に臨まなくてはならない。どちらも生かしたい、しかしそんなに甘くはない。

 サン・ファン・デ・マルコナに到着し、TLCのキャンプ地を訪ねると三浦が憤慨している。普段はにこやかで、冷静な男が怒っている。そして、ラリーマシンであるランドクルーザーのリアハッチは、“くの字”に曲がっている。

くの字に曲がったリアハッチ。トラックの追突による衝撃の強さが見て取れる。三浦ら乗員は無事だった 【写真:杉山友輝】

「512番のトラックがわざとぶつかってきたんです。砂漠を登るのに、助走をつけるためにバックしてきて、最初は気がつかないのかなと思って、知らせようと車外に出ても、われ関せずで、ガンガン3回ぶつかってきたんです。最後は日本語でキレましたよ」

 悪いことは続く。監督の角谷裕司が重い口を開く。

「実は1号車、クリスチャンのマシンがラジエータートラブルで、リタイアとなります」

 それから数時間後、日野のキャンプ地。身動き取れずの第一報から35時間が経過した、9日深夜2時。義正の駆る日野レンジャー1号車と救援車両が帰還。聞くと砂漠で十分な工具もない中、メカニックたちは必死に修理したという。しかしステージ3を全く走っていないため、大会規定によりリタイアとなっていた。

 日野もTLCも1台ずつリタイア。まだ、ラリーは始まって3日しかたっていない。「ペルーはヤバい」、砂の悪魔は選手たちを徹底的に苦しめていた。

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著者プロフィール

J SPORTS プロデューサー。明治大卒業後、雑誌社勤務を経て、テレビマンユニオン「世界ウルルン滞在記」のディレクターを務め、2005年からJ SPORTSへ。新規番組立ち上げや国際大会などの映像制作を担当し、現在の担当競技は卓球・ゴルフ・モータースポーツなど。

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