市川大祐、走り抜けた19年間のプロ生活 けがと向き合った「誰よりも真面目な男」

元川悦子

引退試合で4得点1アシストを記録

引退試合で子供を抱きながら記念写真に納まる元日本代表の市川大祐 【写真は共同】

 あいにくの冷たい雨に見舞われた2018年1月8日のIAIスタジアム日本平。この地でプロキャリアをスタートさせ、19年間走り続けてきた市川大祐の引退試合が行われた。ジュニアユース時代から18年間を過ごした清水エスパルス時代の元指揮官オズワルド・アルディレス監督に率いられた「S-PULSE ALL STARS」、98年ワールドカップ(W杯)フランス大会の日本代表を率いた岡田武史監督(FC今治代表)に率いられた「JAPAN ALL STARS」の総勢55人がピッチで躍動した。

 市川は前半45分間、背番号25をつけ右サイドバック(SB)としてエスパルス側でプレー。先輩・澤登正明の先制弾をいち早くアシストし、前線に上がって1ゴールをマークした。02年のW杯日韓大会で背負った22番のユニホームを身にまとい日本代表側でプレーした後半にも3得点。12月20日のJFA公認B級指導者講習会に参加中、内転筋の肉離れを起こし、この日のプレーが危ぶまれたが、前後半それぞれの前に痛み止めの注射を2度打って、懸命に90分間を走り抜いた(試合は3−2で「JAPAN ALL STARS」が勝利)。

「ダッシュも全然していないし、クロスも蹴っていない。僕のイメージは『右からのクロス』だと思うけれど、けががひどくなったら途中で試合に出られなくなる。そう思って自重しました」と本人も悔しそうだった。それでも、時折、垣間見せたスケールの大きな攻撃参加と献身的なアップダウンは、A代表デビューを飾った98年4月1日の日韓戦当時を彷彿(ほうふつ)とさせるものがあった。

最年少代表デビュー記録はいまだ破られず

17歳322日で代表デビュー。この記録は今も破られていない 【写真:アフロ】

 くしくもその日のソウル・蚕室オリンピックスタジアムも土砂降りの大雨が降っていた。同じ試合で10代ながらそろってA代表デビューを飾った小野伸二(北海道コンサドーレ札幌)も懐かしそうに20年前を述懐する。

「イチ(市川)とは最初の代表選出が一緒で、それから長くA代表も下のカテゴリーでもやってきた。あのダイナミックな攻め上がりとクロスは本当にすごかったと思います」

 市川の持つ17歳322日という史上最年少代表デビュー記録は今も破られていない。「高校生で代表デビューっていうインパクトはあまりにもデカすぎた」と小笠原満男(鹿島アントラーズ)も振り返る。その日韓戦でエースナンバー10をつけ、攻撃のタクトを振るっていた名波浩(ジュビロ磐田監督)は「存在自体が怪物」とさえ言い切った。

「日韓戦という非常にプレッシャーの掛かる中、しかも98年のW杯メンバー発表直前のゲームで、岡田さんが勇気と決断を持って彼を使ったのが大きかった。市川もその心意気を感じて熱いハートで戦っていたし、17歳のデビュー戦の割にはのびのびとライン際を駆け上がっていた。その姿を見て『新しい時代が来たんだな』と感じたのをよく覚えています」という名波の言葉は、世界の荒波に漕ぎ出そうとしていた当時の日本サッカー界の力強い機運を想起させてくれた。

柳沢敦が感じた市川の非凡な才能

柳沢は市川のトップスピードのままクロスを上げられる特徴をたたえた 【写真:アフロ】

 清水FCからエスパルスジュニアユース、ユースを経てプロになった市川大祐は、Jリーグ発足によって生み出された選手の1人と言っていい。リーグ発足によってJクラブに下部組織が設けられ、有能な選手がエリート教育を受けられる体制が整い、早いうちからプロデビューする者が続々と出てきたからだ。

 2つ年上の山口智(ガンバ大阪U−23コーチ)が96年、1つ年上の稲本潤一(札幌)と新井場徹、酒井友之が97年に高3でトップデビューを飾っていたが、市川も清水工業高校2年だった97年12月の天皇杯3回戦・福島FC戦で公式戦デビューを飾った。翌98年には飛び級でトップ登録され、瞬く間に右SBの定位置をつかんだのだ。

 A代表入りの話が舞い込んだのはこの直後。「ジュニアユース時代から彼には注目してきた。98年W杯フランス大会までに劇的な変化を遂げる可能性があると判断した」と岡田監督は抜てきの理由を説明し、デビュー戦となった日韓戦でも大器の片りんを遺憾なく発揮した。スピード感溢れるオーバーラップやライナー性の正確なクロスを何度か披露し、見る者の度肝を抜いた。同じピッチに立った柳沢敦(鹿島コーチ)も「トップスピードのままクロスを上げられるところがイチの特徴。中で待つ身としては特徴を生かしながら動いていましたね」と、その非凡さを説明してくれた。

「市川がいれば日本の右サイドは今後10年間は大丈夫」と言われ、市川フィーバーが起きる中、彼はW杯フランス大会の最終候補25人に入った。しかし、スイス・ニヨンの直前合宿で三浦知良(横浜FC)、北澤豪とともに落選の憂き目に遭う。しかしながら「チームに残りたい」と自ら志願し、ホペイロ(用具係)の役割を買って出る。周囲が「誰よりも真面目な男」と評する通り、彼は献身的な立ち振る舞いで先輩たちを支えた。

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著者プロフィール

1967年長野県松本市生まれ。千葉大学法経学部卒業後、業界紙、夕刊紙記者を経て、94年からフリーに。Jリーグ、日本代表、育成年代、海外まで幅広くフォロー。特に日本代表は非公開練習でもせっせと通って選手のコメントを取り、アウェー戦も全て現地取材している。ワールドカップは94年アメリカ大会から5回連続で現地へ赴いた。著書に「U−22フィリップトルシエとプラチナエイジの419日」(小学館刊)、「蹴音」(主婦の友社)、「黄金世代―99年ワールドユース準優勝と日本サッカーの10年」(スキージャーナル)、「『いじらない』育て方 親とコーチが語る遠藤保仁」(日本放送出版協会)、「僕らがサッカーボーイズだった頃』(カンゼン刊)、「全国制覇12回より大切な清商サッカー部の教え」(ぱる出版)、「日本初の韓国代表フィジカルコーチ 池田誠剛の生きざま 日本人として韓国代表で戦う理由 」(カンゼン)など。「勝利の街に響け凱歌―松本山雅という奇跡のクラブ 」を15年4月に汐文社から上梓した

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