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現役引退後に聞く、加地亮の矜持
20年間気配りを続けた黄金世代の右SB

通算出場499試合での引退表明

2017シーズンで引退した加地が、20年間に渡るプロ生活を振り返った
2017シーズンで引退した加地が、20年間に渡るプロ生活を振り返った【Getty Images】

 Jリーグが2017シーズンのラストを迎えつつあった11月25日、ファジアーノ岡山から「加地亮選手がプロサッカー選手を引退することになりました」という突然のリリースが流れた。


「7月の水戸ホーリーホック戦で負った肋骨骨折から復帰した後、体とプレーのギャップを強く感じるようになった。このまま現役を続ける自信を持てなくて、契約を1年残した今、やめるのがベストな判断かなと思ったんです」と加地は本音を吐露した。Jリーグ20シーズンでの通算出場実績は499試合。500の大台まであと1つだったが、「逆に499で終わるのが僕らしいでしょ」と加地は笑顔をのぞかせた。ベストパフォーマンスを出せないならピッチに立つ資格はないという彼の流儀がこういう発言をさせたのだろう。


 とはいえ、1998年に滝川第二高校からセレッソ大阪入りした頃の加地はそこまでストイックでプロ意識の高い選手ではなかった。


「最初は高校生の気持ちで入って、メンタル的にもプロになり切れていなかった。朝まで夜遊びして練習に行くこともありました」と彼は未熟だった当時を述懐する。かつて同じ右サイドバック(SB)だった松木安太郎監督が率いていた1年目はリーグ戦15試合に出場したものの、レネ・デザイェレ監督に代わった2年目は9試合のみ。C大阪では自分のスタイルを確立できずに苦しんだ。


 そんな彼の大きな転機となったのが、99年にナイジェリアで行われたFIFAワールドユース選手権(現在はU−20ワールドカップ/W杯)準優勝と2000年の大分トリニータへの期限付き移籍。80年1月生まれの彼はご存知の通り「黄金世代」の1人。18歳で98年W杯フランス大会に出場した小野伸二を筆頭に、稲本潤一、本山雅志、小笠原満男、遠藤保仁らタレント集団の中に入った彼は「ついていくのがやっとだった」と苦笑する。ナイジェリアでも米国、イングランド、ウルグアイ戦での途中出場にとどまったが、「バン(播戸竜二)や氏家(英行)、ヤス(高田保則)、自分といったサブ組が盛り上げてすごくいい雰囲気だったし、決勝のスペイン戦以外は負ける気がしなかった。本当に強いチームは控え組が高い意識を持って仲間を支えている。その重要性を学びましたね」と加地は語る。


 黄金世代の仲間に追いつくためには、レベルアップするしかない……。素直にそう思えたから、当時まだ珍しかったJ2への期限付き移籍も迷うことなく踏み切れた。


「2000年の大分は石崎(信弘)さんが監督、手倉森(誠)さんがコーチ。練習は2部練が当たり前で筋トレもものすごくやりました。01年は小林伸二さんが率いていてメチャクチャ怒られたけれど、自分を追い込みました。個人トレーナーをつけるようになったのもこの頃。体のことを徹底的にケアしようと思うなら、サポートしてくれる人が必要。僕は細かい部分まで突き詰めることが大切だと思ったんです。プロになって初めてサッカーに全身全霊を注いだことでパフォーマンスも向上したし、試合にもフル出場できた。大分での経験は本当に大きかったですね」と、彼は神妙な面持ちで言う。

黒子に徹しながらのステップアップ

けがを乗り越えて出場したドイツW杯だったが、屈辱的なグループ最下位に終わった
けがを乗り越えて出場したドイツW杯だったが、屈辱的なグループ最下位に終わった【写真:アフロ】

 J2での急成長が買われて、02年に原博実監督率いるFC東京に完全移籍。不動の右SBとして定着する。くしくも同じ17年末に引退した石川直宏との縦関係は破壊力抜群で、04年Jリーグヤマザキナビスコカップ(当時)初優勝の原動力にもなった。A代表に抜てきされたのもFC東京時代。ジーコ監督が求めていた4バックの右サイド像に合致した加地は03年10月のチュニジア戦で初キャップを飾り、04年アジアカップ(中国)制覇にも貢献。チームに不可欠な存在と位置付けられた。


「僕が代表の右SBに定着できたのは偶然の積み重ね。ジーコジャパンにはヒデ(中田英寿)さんや俊(中村俊輔)さんみたいなうまくて個性の強い選手がたくさんいたので、ひたすら右サイドをアップダウンすることに集中していました。自分は底辺にいる人間だったし、実力も分かっていた。下手は下手なりにみんなを助けて、黒子として働こうという意識を強く持ってやりました。


 代表で一番印象深い試合は04年10月のドイツW杯1次予選のオマーン戦。1チームしか最終予選に上がれない重圧の中、敵地で勝ってものすごく安堵(あんど)感を覚えた記憶があります。代表でW杯予選を戦うのはプレッシャーと緊張の連続。大変さを常に感じていました」と加地は振り返る。

ドイツW杯の日本代表は「粘り強さのないアッサリしたチームになってしまった」と悔恨の念を口にした
ドイツW杯の日本代表は「粘り強さのないアッサリしたチームになってしまった」と悔恨の念を口にした【元川悦子】

 それだけ辛く苦しい思いをして勝ち取った06年ドイツW杯の大舞台だったが、直前のドイツとの親善試合でバスティアン・シュバインシュタイガーに後方からタックルを受けて負傷。重要な初戦・オーストラリア戦のピッチに立つことができなかった。その大一番で日本は1−3とまさかの逆転負け。加地が戻ったクロアチア、ブラジル戦でも勝ち星を挙げられず、屈辱的なグループ最下位に沈んだ。


「ドイツは一瞬で終わった印象しかない。あれだけ予選を苦労して勝ち上がったのに何の成果も残せなくて、本当にむなしい気持ちになりました。僕自身も『一番下にいる選手だから』という気持ちがあって、年長の選手たちともあまり話ができなかったけれど、チームが本当に1つにまとまるためには、年齢とか経験とか関係なしに、全員がミーティングや話し合いを繰り返して、100の力を150にする努力が必要だった。それができなかったから、粘り強さのないアッサリしたチームになってしまった気がします」と彼は悔恨の念を口にする。


 確かにジーコジャパンは日本サッカー史上最高のタレント集団だったと評されるが、どこか一体感や結束力に欠けていた。世界で勝つためにはそういう部分がより重要になる。ロシア大会に挑む現日本代表にとっても、生き証人の言葉は非常に重い。

元川悦子
元川悦子

1967年長野県松本市生まれ。千葉大学法経学部卒業後、業界紙、夕刊紙記者を経て、94年からフリーに。Jリーグ、日本代表、育成年代、海外まで幅広くフォロー。特に日本代表は非公開練習でもせっせと通って選手のコメントを取り、アウェー戦も全て現地取材している。ワールドカップは94年アメリカ大会から5回連続で現地へ赴いた。著書に「U−22フィリップトルシエとプラチナエイジの419日」(小学館刊)、「蹴音」(主婦の友社)、「黄金世代―99年ワールドユース準優勝と日本サッカーの10年」(スキージャーナル)、「『いじらない』育て方 親とコーチが語る遠藤保仁」(日本放送出版協会)、「僕らがサッカーボーイズだった頃』(カンゼン刊)、「全国制覇12回より大切な清商サッカー部の教え」(ぱる出版)、「日本初の韓国代表フィジカルコーチ 池田誠剛の生きざま 日本人として韓国代表で戦う理由 」(カンゼン)など。「勝利の街に響け凱歌―松本山雅という奇跡のクラブ 」を15年4月に汐文社から上梓した

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