市川大祐、走り抜けた19年間のプロ生活 けがと向き合った「誰よりも真面目な男」

元川悦子

チュニジア戦で見せた真骨頂のクロス

市川(22番)はW杯日韓大会に出場。ベスト16進出の原動力となった 【Getty Images】

 高度な経験値を次の代表指揮官、フィリップ・トルシエも高く評価し、U−20日本代表、シドニー五輪代表、A代表の3カテゴリーで市川を起用しようとした。だが、超過密日程がたたって99年のワールドユース(現U−20W杯)直前、当時まだ珍しかった「オーバートレーニング症候群」と診断されてしまう。このため大会で準優勝を果たし、世界2位となったメンバーの一員になり損ねた市川は「電車に乗り遅れた」とトルシエに言われ、理不尽な扱いを受ける。本人も「これはちょっと厳しいな」と危機感を抱いたという。

 予期せぬ苦境に直面した時、背中を押してくれたのが、エスパルスのアルディレス、スティーブ・ぺリマン両監督であった。

「オジー(アルディレスの愛称)とスティーブはプレーの選択肢を数多く与えてくれた人。『これじゃダメ』とは言わず、イメージを膨らませてくれるんです。(ピッチの)4分の1のミニゲームでも素早い判断やボールを奪うための寄せの速さを要求された。そういう日々を繰り返すことで、自分の成長を実感できました」と市川は語る。

 21歳の成熟したプレーヤーとなった彼をトルシエも認め、02年3月のウクライナ戦で代表に呼び戻す。「電車に乗り遅れたのなら、今度は駆け込み乗車してやろう」と開き直った結果、市川はW杯日韓大会の代表を勝ち取り、ベスト16進出の原動力となる。第3戦のチュニジア戦で中田英寿の2点目をアシストしたクロスなどは、まさに彼の真骨頂と言えるプレーに他ならなかった。

「あれはやろうと思って出たプレーではなくて、体が勝手に動いた流れるようなプレー。地元開催とかスタジアムの雰囲気とかいろいろなものが重なって出たから忘れられない」と本人も語ったことがある。市川はそれだけのハイレベルな仕事ができる男だった。

けがに悩まされながら貫いた自分らしさ

10年限りで清水を離れた後、市川は再びけがに悩まされることが増えた 【写真:アフロスポーツ】

 日本が0−1で苦杯をなめたラウンド16・トルコ戦の宮城スタジアムも雨。号泣した市川大祐は「お前が一番若いんだから次の代表を引っ張っていけ」と激励を受けた。本人もそのつもりだったが、そこから予期せぬけがに次々と見舞われる。03年に浮上したフランス1部・ストラスブール入りの話も立ち消えになり、クラブでもフル稼働できない時期が増え、彼自身も大いに苦しんだ。

 長谷川健太監督(FC東京)が清水を率いた05年以降はパフォーマンスも上向き、岡崎慎司(レスター・シティ/イングランド)ら若いFWのアシスト役としていぶし銀の働きを見せた。だが、10年限りで清水を離れた後は、再びけがに悩まされることが増えた。

けがで苦しみながらも5つのカテゴリーでプレー。大好きなサッカーと向き合い続けた 【写真:YUTAKA/アフロスポーツ】

「僕のサッカー人生にとってけがはものすごく大きなものだった。その時々に『けがをしていなかったら』と思ったこともあったけれど、『けがをしたからこそ(何かが得られる)』というのを自分自身は追い求めてきた。けがをしっかり受け止めながらサッカー人生を送ったつもりです」と市川は語る。

 J1のヴァンフォーレ甲府、J2の水戸ホーリーホック、J3の藤枝MYFC、四国リーグのFC今治、JFLのヴァンラーレ八戸でプレーすることを選択したキャリア終盤はそんな気持ちを持ち続け、自分自身を見失うことなく、大好きなサッカーと向き合った。

「自分は最終的に5つのカテゴリーでプレーしました。それは大きな財産だと思っています。甲府に行った後はエスパルスで当たり前だった環境とは全く違った。でも僕が求めているサッカーや環境がそこにあった。働きながらプレーしている人もいましたけれど、彼らから学ぶことも多かった。それは本当に意味あることでした」と市川はどんな状況でも前向きさを失わなかった。そのひたむきさと生真面目さは10代のころから全く変わっていない。日本屈指の右SBと言われた男は、自分らしさを貫いて19年間のプロ生活を走り抜けたのだ。

市川「今は次の夢とか目標を作る期間」

市川(左)は17年に功労選手賞を受賞。どんな第2の人生を過ごすのか 【写真:アフロスポーツ】

 17年からは古巣・清水の普及部で働いているが、今後の身の振り方はまだ明確になっていないという。

「B級ライセンスは取りましたけれど、指導者になると決めて勉強したわけではなくて、サッカーを幅広く学ぶという意味で受講しました。今は次の夢とか目標を作る期間なのかな。これまでとは違った形でサッカーに携わり、貢献できるような人間になっていきたいです」と本人は率直な思いを打ち明けた。

 実際、これだけの壮絶なキャリアを送った選手もそうそういない。天国と地獄を知る市川大祐が、今後の日本サッカー界にもたらせるものは決して少なくないはずだ。

「僕ら引退した元選手は過去ではなくて未来を生きていかなければいけない。引退してからの人生の方がより重要になってくる。イチなら意味のあることができる人間になれると思うし、そういうことを見つけられるはず」と清水と代表の先輩・戸田和幸も強調していた。

 37歳で幕を開けた彼の第2の人生が、大きく花開くことを祈りたい。

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著者プロフィール

1967年長野県松本市生まれ。千葉大学法経学部卒業後、業界紙、夕刊紙記者を経て、94年からフリーに。Jリーグ、日本代表、育成年代、海外まで幅広くフォロー。特に日本代表は非公開練習でもせっせと通って選手のコメントを取り、アウェー戦も全て現地取材している。ワールドカップは94年アメリカ大会から5回連続で現地へ赴いた。著書に「U−22フィリップトルシエとプラチナエイジの419日」(小学館刊)、「蹴音」(主婦の友社)、「黄金世代―99年ワールドユース準優勝と日本サッカーの10年」(スキージャーナル)、「『いじらない』育て方 親とコーチが語る遠藤保仁」(日本放送出版協会)、「僕らがサッカーボーイズだった頃』(カンゼン刊)、「全国制覇12回より大切な清商サッカー部の教え」(ぱる出版)、「日本初の韓国代表フィジカルコーチ 池田誠剛の生きざま 日本人として韓国代表で戦う理由 」(カンゼン)など。「勝利の街に響け凱歌―松本山雅という奇跡のクラブ 」を15年4月に汐文社から上梓した

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