1997年 ジョホールバルとJの危機<前編>
シリーズ 証言でつづる「Jリーグ25周年」

93年の週刊化、そしてJリーグバブルの崩壊

Jリーグ開幕とともにもたらされた週刊専門誌の時代。だが、その“Jリーグバブル”崩壊の足音も、すぐそこまで迫っていた
Jリーグ開幕とともにもたらされた週刊専門誌の時代。だが、その“Jリーグバブル”崩壊の足音も、すぐそこまで迫っていた【(C)J.LEAGUE】

 当初、月刊誌だったマガジンとダイジェストが、月2回の発行となり、さらに週刊誌となったのはJリーグ開幕が大きく影響している。週刊専門誌の時代は、まさにJリーグ開幕とともにもたらされたと言っていいだろう。もっとも、マガジンとダイジェストの週刊化は、Jリーグ開幕から少し経ってからのこと。しかも先導したのは、もうひとつの専門誌『ストライカー』だったという。


「開幕の時はまだ、マガジンは月2回でした。週刊化したのは、W杯(米国大会)予選が始まるタイミングで、第1号の表紙は日本代表のスペイン合宿のときに撮影したカズと井原(正巳)。確か『ドーハの悲劇』は週刊になって5号の時でしたね。個人的な実感としては、週刊化よりも月2回になった時のほうが大変でした。同じくらいのボリュームの雑誌を2回作っている感じでしたからね」(伊東)


「実は月刊から月2回になったのは、ストライカーが先導したんですよ。当時の版元は大手の学研だったから、マガジンもダイジェストも追随する感じでした。そのストライカーが、今度は週刊化するという情報が入ってきたんです。つまり駆け引きの相手は、マガジンではなくストライカー。ところがフタを開けると、週刊化したのはウチとマガジンだけ。結局、ストライカーは週刊化せずに月刊誌に戻ったんですよね」(六川)


 かくして93年10月より、全国の書店やキヨスクで週刊誌となったマガジンとダイジェストが並ぶこととなった。そして「本流のマガジン」と「カウンターのダイジェスト」という両者の立ち位置は、さらに明確化されてゆく。伊東と六川の記憶によれば、専門誌が“Jリーグバブル”の恩恵を受けたのは94年になってから。しかし波及効果は、それほど長くは続かなかったようである。


「週刊化して最初に売れたのが、94年の3月に出した選手名鑑号でした。『ドーハの悲劇』でW杯初出場を逃しましたが、逆にそのことで日本のサッカー界は盛り上がって、われわれの業界にも波及効果がありましたね。当時は現代、ポスト、文春、新潮といった週刊誌が80万部の時代でしたが、ウチも20万部は売れていましたね」(伊東)


「ウチが危機感を覚えるようになったのは、95年くらいですかね。翌年のアトランタ五輪予選でコケたら、本当にヤバイと思っていました。何か手を打たないといけないと思って始めたのが、『バモラ! 翔平』というヴェルディユースを舞台にした漫画の連載。人気が出てアニメ化されたら、いろいろ旨味があるだろうと思ったんですけどね」(六川)


 ちなみに『バモラ! 翔平』は、当時ヴェルディ川崎に所属していた都並敏史が監修となり、ヴェルディユースのトレーニング風景や登場人物のスパイクなどが、実にリアルに描かれている。だが、アニメ化されるほどの人気を獲得するには至らず、97年シーズンの開幕前に連載が終了。Jリーグバブル崩壊の足音は、すぐそこまで迫っていた。


<後編(11/17掲載予定)につづく。文中敬称略>

宇都宮徹壱
宇都宮徹壱

1966年生まれ。東京出身。東京藝術大学大学院美術研究科修了後、TV制作会社勤務を経て、97年にベオグラードで「写真家宣言」。以後、国内外で「文化としてのフットボール」をカメラで切り取る活動を展開中。旅先でのフットボールと酒をこよなく愛する。著書に『ディナモ・フットボール』(みすず書房)、『股旅フットボール』(東邦出版)など。『フットボールの犬 欧羅巴1999−2009』(同)は第20回ミズノスポーツライター賞最優秀賞を受賞。近著はスポーツナビでの連載をまとめた『J2&J3 フットボール漫遊記』(東邦出版)

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