「伝説のチーム」の一員だった河野監督 強豪・徳島市立復活へ懸ける積年の思い
「黄金期」を作り上げた河野博幸
徳島市立は11月12日、徳島北との地区大会決勝に臨む 【安藤隆人】
ただ袖を通していたわけではない。河野監督の代は「徳島市立史上最強の代」だった。河野監督が高2のとき、チームは2年生主体の若いチームでありながら、1991年の高円宮杯全日本ユース選手権(現・高円宮杯プレミアリーグ、チャンピオンシップ)で優勝。その翌年には宮崎で行われた全国高校総体(インターハイ)で優勝を成し遂げ、2度の日本一に輝き、「黄金期」を作り上げた。
屈強なフィジカルと冷静な判断力、そして正確なキックを持ち合わせたセンターバックとして、河野監督はチームの中心選手として活躍。まさに「伝説のチームの一員」だった。
しかし、河野監督の代が「黄金期」、「伝説のチーム」と表現されているように、彼らが卒業した後は緩やかに低迷していき、選手権では2001年の11回目の出場から、実に10年間も県予選を突破できなかった。
その期間に徳島市立の前に立ちはだかっていたのが、古豪・徳島商。秋田商と常に争うように選手権最多出場記録を更新していた名門のオレンジ軍団を率いていた男こそ、河野監督だった。
「徳島商を率いていたときは、とにかく必死だった。自分は徳島商OBじゃないからこそ、低迷させるわけにはいかなかった。徳島市立との戦いも、『絶対に倒す』という気持ちでやっていました」
河野監督が就任していた7年間で6度の選手権出場を果たし、05年度の選手権ではベスト16まで勝ち進んだ。04年から06年までは塩谷司(現アル・アイン)を指導し、彼のベースを築いた。
それは水色のユニホームへの思いを心の奥底にしまい込む日々でもあった。
「やっぱりいつかは徳島市立の監督をやりたい」
これが本音だった。徳島商の監督として対戦相手となったときも、10年から徳島中央に赴任しサッカー部から外れたときも、常に母校を客観し続け、抱いた思いがあった。
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