2013年 アジア戦略とレ・コン・ビン<後編> シリーズ 証言でつづる「Jリーグ25周年」

宇都宮徹壱

なぜJ2の地方クラブがベトナムの英雄を獲得できたのか?

札幌はベトナムの国民的スター選手、レ・コン・ビンを獲得。札幌で会見が行われた 【写真は共同】

 レ・コン・ビンのJリーグ挑戦──「海外組」が当たり前となった現在の日本では、その話題性をイメージするのは難しいかもしれない。当時のベトナム国民の心情を表現するなら、「カズ(三浦知良)のセリエA挑戦」を思い出せば、多少は理解しやすくなるだろう。ベトナム代表として国際Aマッチ出場85試合、51ゴールという歴代最多記録を誇るレ・コン・ビンは、まさにベトナム国民にとっての生けるレジェンドであった。

 もっとも、J2の地方クラブがベトナムの国民的英雄を獲得できたのは、Jリーグ側の働き掛けが不可欠だったことは留意すべきだろう。アジア戦略室にいた山下修作によれば、東南アジアに目を向けるJクラブがほとんどない中、強い関心を示していたのが札幌だったという。「特にGM(ゼネラルマネージャー)の三上(大勝)さんは熱心でしたね。現地でJリーグを見てもらうんだったら、レ・コン・ビンくらいインパクトのある選手がほしい。では、どうしたら彼に来てもらえるのか? われわれも一緒になって考えました」と回想する。

 当時、レ・コン・ビンが所属していたのは、国内リーグ1部のソンラム・ゲアン。6月のある日、獲得交渉のため野々村は現地に赴いたが、面食らうことが少なくなかったそうだ。当人いわく「向こうから何人も出てくるけれど、誰と話していいのか分からない。やたらと無駄に時間が過ぎていく感じで、これがベトナムのスタイルなのかと勉強になりましたね(笑)」。手探りでスタートした獲得交渉は、最終的に「2014年1月1日までの期限付き移籍」という形で成立。8月6日に札幌で会見が行われた。この間も山下は、レ・コン・ビンのJリーグデビューに向けて汗をかき続けている。

「レ・コン・ビン獲得には、それなりにお金が必要だったんです。ですので『僕も一緒にスポンサー営業を頑張ります!』と言って、札幌のスタッフと一緒にあちこち営業に回っていましたね(笑)。何とかスポンサーのめどが付いて、外国人選手の枠も空いたということで、レ・コン・ビンの加入が決まったのが7月22日。それから1カ月後の8月21日、愛媛FC戦でJリーグデビューが実現しました」

 レ・コン・ビンの印象について、野々村は「メンタル面での強さを感じましたね」、山下は「日本でのチャレンジにものすごく前向きでした」と、いずれも好印象を受けていた。とりあえずは半年間の期限付きだが、契約延長は既定路線──そう、関係者の誰もが信じて疑わなかった。

ピッチ外でのレ・コン・ビン効果と突然の別れ

レ・コン・ビン効果は日本の外交面にも及んだと山下修作は語る 【宇都宮徹壱】

 13年シーズンの途中で札幌に移籍したレ・コン・ビンは、リーグ戦で9試合、天皇杯で2試合出場し、それぞれ2ゴールずつ挙げている。札幌には当時、レ・コン・ビンの他に、チョ・ソンジン、パウロン、フェホという外国人選手がいた。Jリーグ提携国枠ができるのは翌14年以降だが、すでにAFC(アジアサッカー連盟)加盟国枠はあったので「枠からはみ出た」という理由は当たらない。初めてベンチ入りした第28節(対横浜FC戦)を含めて、15試合が残っていた中での9試合2ゴールという成績をどう評価するかは、意見の分かれるところだろう。むしろレ・コン・ビンのインパクトは、ピッチ外で目にすることが多かった。

「日本の商社が、札幌ドームにベトナム語の看板を出してくれることになったんですね。レ・コン・ビンはCKを蹴ることが多いから、ちょうどコーナーアークのあたりに看板を出しましょうと。ベトナム語なので、何と書いてあるのかは分からない。でも、中継映像を楽しんでいるベトナムの人たちは、その看板を見て『おおっ!』と思うわけですよ。それに日本でも、全国ニュースで取り上げられましたしね」

 野々村の証言である。ちなみに、レ・コン・ビン獲得で得た売り上げは「看板を含めて5000万円くらい」とのこと。だがそれ以上に「国内でのメディア露出もそうだし、試合の勝ち負け以外の価値というものを、スポンサーさんに分かっていただけたのは大きかった」とも語る。レ・コン・ビン効果は、日本の外交面にも及んだ。こちらは山下の証言。

「その年の12月、ASEAN特別首脳会談が東京であって、レ・コン・ビンがアンバサダーとして招かれました。また、安倍(晋三)首相がベトナムの(チュオン・タン)サン国家主席と会談する際にも、冒頭で『あなたの国のスター選手が日本で活躍してくれています』というお話をされたそうです。実は外務省からJリーグに要請があったのですが、あれはまさにターニングポイント。スポーツ以外の分野でも、Jリーグが貢献できるということを知ってもらう、いい機会になったと思っています」

 かくして、札幌にとっての激動の13年シーズンは終わった。クラブ側としては、レ・コン・ビンとの契約を延長する方針であったし、当人も日本でプレーを続ける意思表示を見せていたという。ところが明けて14年の1月5日、山下はGMの三上から衝撃的な電話を受ける。「レ・コン・ビンがソンラムの新体制発表会にユニホームを着て出席しています!」──札幌とレ・コン・ビンの別れは、あまりに唐突かつ不可解なものとなった。

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著者プロフィール

1966年生まれ。東京出身。東京藝術大学大学院美術研究科修了後、TV制作会社勤務を経て、97年にベオグラードで「写真家宣言」。以後、国内外で「文化としてのフットボール」をカメラで切り取る活動を展開中。旅先でのフットボールと酒をこよなく愛する。著書に『ディナモ・フットボール』(みすず書房)、『股旅フットボール』(東邦出版)など。『フットボールの犬 欧羅巴1999−2009』(同)は第20回ミズノスポーツライター賞最優秀賞を受賞。近著に『蹴日本紀行 47都道府県フットボールのある風景』(エクスナレッジ)

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