忘れられた女子クラブとJヴィレッジの再開 東日本大震災から6年、元マリーゼGMの回想

宇都宮徹壱

(株)日本フットボール・ヴィレッジの取締役統括部長の小野俊介氏。震災当時はマリーゼのGMとしてJヴィレッジに勤務していた 【宇都宮徹壱】

 今年も「3.11」の季節がやってきた。「震災とサッカー」という切り口で言えば、被災地のクラブとして全国的な注目を浴びたベガルタ仙台、消滅の危機を乗り越えてJクラブとなった福島ユナイテッドFC、そして被災者に寄り添い続けてきたコバルトーレ女川など、カテゴリーを超えてさまざまな「物語」が紡がれてきた。その一方で、同じく被災地を本拠としながら、ほとんど語られてこなかったクラブも存在する。震災当時、なでしこリーグに所属していた、東京電力女子サッカー部マリーゼ(以下、マリーゼ)である。

 マリーゼの前身は、1997年に宮城県で設立されたYKK東北女子サッカー部フラッパーズ(のちにYKK AP東北女子サッカー部フラッパーズに改称)。2004年にチームは東京電力に移管され、05年からはマリーゼとして福島のJヴィレッジを本拠として活動するも、11年の開幕前に発生した東日本大震災と原発事故を受けて活動停止。翌12年にベガルタ仙台が新たな移管先となり、ベガルタ仙台レディースとして今に至っている。

 このように、マリーゼの流れをくむクラブは現存しているものの、マリーゼそのものは復活の兆しを見せることはない。震災により、全国リーグを戦うクラブが活動停止となった例は、男女含めてマリーゼのみ。にもかかわらず、その「物語」は半ば封印されたような形で今に至っているのが実情だ。かつての本拠地Jヴィレッジが、19年の全面再開を目指し、JFA(日本サッカー協会)でも盛んにアピールされているのとは対照的である。

 本稿の語り部である小野俊介氏は、(株)日本フットボール・ヴィレッジの取締役統括部長。長年、女子サッカー畑を歩んできて、震災当時はマリーゼのGMとしてJヴィレッジに勤務していた。震災後は、選手の受け入れ先の確保や、仙台への移管にも尽力している。思えば震災があった11年は、なでしこジャパンがワールドカップ(W杯)で世界一となり、震災に打ちひしがれた国民に勇気を与えた。しかし他方、「あの日」を契機に忘れさられた女子サッカークラブがあったことについても、この機会に思い出していただければ幸いである。(取材日:2017年2月17日)

マリーゼ設立の経緯と「元なでしこ」の思い出

Jヴィレッジはかつて日本代表をはじめ、さまざまなチームが利用していた場所だ 【写真は共同】

 今ではすっかり「こっち(福島)の人」ですが、出身は東京です。大学卒業後は日立の子会社で働きながらサッカーを続けて、98年から05年まではJFAで働いていました。こっちで働くようになったのは06年から。当時、Jヴィレッジの副社長をされていたのが、のちにJFA会長になる大仁邦彌さん。「東京電力が(Jヴィレッジの施設を生かした)ソフト作りの一環として、女子サッカーチームを作りたがっている。そのための人材を探しているから、お前がやれ」という話になりました。

 Jヴィレッジは、東電さんが作って福島県に寄贈された施設なんですが、日本代表をはじめ、さまざまなチームが利用する一方で、地元の人たちからすると応援する対象がなかったんですね。ただし、Jクラブを作るというのは荷が重かった。女子チームの方が、経済的にも大きな負担ではないでしょうし、大仁さんが女子委員長をされていたこともあって、「女子のチームを作ってほしい」という話になったんだと思います。私自身、JFAでは女子の日本代表の仕事をしていましたし、女子サッカーを盛り上げたいという思いもありました。そんな経緯もあって、06年からマリーゼのGMに就任することになりました。

 福島で暮らすのは初めてでしたが、すぐに気に入りましたね。物価は高くないですし、食べ物もおいしいし、温泉もある。それにJヴィレッジでは、質の高いサッカーを見ることができました。東京で暮らしていた時のように、満員電車に揺られることもないですから、生活はとても快適でしたね。家内にも「老後はここで暮らそうか」と言っていたくらいです。ただしマリーゼの成績は、最初は振るわなかったですね。2年目は最下位に終わって2部に降格。1年で1部に復帰しましたけれど、その後もチーム強化には苦心しました。

 当時、選手は全員、東電の社員でした。「元なでしこ(日本代表)」で言えば、丸山桂里奈は福島第一原子力発電所に勤務していましたね。あまり「OL」という感じではなかったですけれど(笑)、職場ではかわいがられていました。宮本ともみは東電の事務所ではなく、Jヴィレッジに出向して職員として働いていました。非常にプロ意識が強くて、昼間の勤務を終えたらみっちりトレーニングをして、それから子供を保育園に迎えにいっていましたね。鮫島彩は、私がこちらに来た06年に入ってきました。北京五輪(08年)のときには、最終的に代表には選ばれませんでしたが(バックアップメンバーに選出)、運動能力が高い選手だったので、いずれ代表に定着してほしいと思っていました。結局、彼女は震災が発生するまで、ずっとマリーゼでプレーしました。

震災直後、津波も原発事故も気づかなかった

震災があった日、マリーゼは宮崎でキャンプ中だった。その後、マリーゼは活動休止となる(写真は08年4月のもの) 【写真:YUTAKA/アフロスポーツ】

 震災があった日、マリーゼは宮崎でキャンプに入っていたので、こちらにはいませんでした。最初の揺れが起こったとき、私はフィットネス棟の2階にあるマリーゼの事務所にいたんです。かなり激しい揺れで、慌てて外に飛び出したんですが、その後も何度も揺れたので、怖くて建物の中に戻れませんでした。ちょうどその日、Jヴィレッジのフィットネスクラブでは高齢者のための水泳教室が行われていて、お年寄りの皆さんが水着のままで外に避難しておられました。雪が降るほどの寒さだったので、急いで事務所に戻って、ベンチコートや練習着をかき集めました。それらを着てもらって、暖房を入れた送迎用バスで待機していただいたことをよく覚えています。

 幸い、Jヴィレッジのスタッフにけが人はいませんでした。ただ、地元出身のスタッフが自宅に奥さんと小さい赤ちゃんを残していたので、一緒に車で様子を見にいくことにしたんです。そうしたら、海沿いにあった民家がなくなっていてびっくりしました。最初の津波が押し寄せて、引いた直後だったんです。Jヴィレッジは高台にあったので、津波にまったく気がつきませんでした。もちろん、停電でテレビも見られません。その日の夜は、日本代表のシェフで有名な西(芳照)さんがプロパンを外に持ち出して、ご飯を炊いてくれました。おかずはウインナーとおしんこ。周辺から避難してきた方も含めて350人くらいいたんですが、皆さんに食べていただきました。

(原発事故の)避難勧告が出たのは、次の日の朝9時ごろでした。防災無線で「どうやら放射能が漏れたみたいだから、なるべく南の方へ逃げてくれ」と。それまで情報から隔絶された状況で、世の中がどうなっているかまったく分からない状況でした。とりあえず朝食をとって、いわき市の平(たいら)にある小学校へ避難することになりました。ただ、当時は「放射能」というものがどういうものなのか、よく分からなかったというのが正直なところでした。ですから「逃げろ」と言われても、後ろから毒ガスのようなものが追っかけてくるような、そういうイメージしかありませんでしたね。

 避難が終わって、ようやくマリーゼのことを考えられるようになりました。選手たちはみんな、テレビでこちらの状況は見ていたようですから、きっと心配しているだろうと。東電の方ともお話をして、とにかく宮崎に行ってみることにしました。幸い、私の車はガソリンが満タンでしたので、まずは東京まで行こうと。ただし道路が寸断されていたり、ガソリン待ちの渋滞ができていたり、結局2日間かかりましたね。JFAハウスに立ち寄って報告をして、自宅で着替えてからすぐに宮崎に飛びました。

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著者プロフィール

1966年生まれ。東京出身。東京藝術大学大学院美術研究科修了後、TV制作会社勤務を経て、97年にベオグラードで「写真家宣言」。以後、国内外で「文化としてのフットボール」をカメラで切り取る活動を展開中。旅先でのフットボールと酒をこよなく愛する。著書に『ディナモ・フットボール』(みすず書房)、『股旅フットボール』(東邦出版)など。『フットボールの犬 欧羅巴1999−2009』(同)は第20回ミズノスポーツライター賞最優秀賞を受賞。近著に『蹴日本紀行 47都道府県フットボールのある風景』(エクスナレッジ)

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