ベガルタ仙台、もう一度被災地のために 復興のシンボルとして戦う覚悟と決意
被災地に大きな勇気を与えた躍進
11年4位、12年2位と躍進した仙台は「復興のシンボル」として被災地に大きな勇気を与えた 【写真:アフロスポーツ】
大きな震災被害を受けた仙台市、そして宮城県。4年が経過した今も沿岸部は仮設住宅が建ち並び、復興が遅々として進まない地域も依然として多い。ただ、復興が着々と進んでいる地域もある。今月21日、石巻線が全線復旧となる。内陸に移動し、かさ上げされた土地に新しく完成した女川駅の周りは、大規模な区画整理・かさ上げ工事が行われ、まちびらきが行われる予定だ。6月には仙台市と石巻市を結ぶ仙石線も東松島市・石巻市地域の一部駅が内陸側に移動し、ようやく全線復旧する。また、計画より大幅に遅れているものの災害公営住宅が完成し、入居が始まった地域もある。仙台市ならびに宮城県は道半ばではあるものの、復興の歩みを少しずつ進めているという状況だ。
そして宮城県仙台市をホームタウンとするJリーグクラブのベガルタ仙台。震災発生直後から支援物資の収集などを率先して行い、いち早く被災地支援を実施してきた。震災から時間が経過した今でも被災地域の子どもたちの試合招待や、被災地の訪問などを継続していて、復興のために活動している。
チーム自体も2011年は4位、12年はシーズン終盤まで優勝争いを展開して2位と躍進。当時の手倉森誠監督(現U−22日本代表監督)の掲げた「希望の光」というフレーズは象徴的であり、仙台の躍進は被災地に大きな勇気を与えた。
色あせた「希望の光」というフレーズ
13年からチームは下降線をたどる。昨年は残留争いに巻き込まれるなど、苦しいシーズンを送った 【Getty Images】
渡邉監督は当初、手倉森監督の展開していた前線から積極的にプレスをかけ、豊富な活動量を武器とするサッカーに立ち戻り、一時的に成績を向上させた。しかし夏以降から攻撃的なスタイルへの転換がうまくいかず、負傷者が続出し、高齢化した選手の活動量は低下。秋以降は自陣で守備組織を固め、カウンター攻撃で点を取る守備的なスタイルに転換し、どうにかJ1残留を果たした。しかし、残留争いに苦しみ、自陣で守備をする時間が長くなる姿は復興の先頭に立つ姿からは遠く、「希望の光」というフレーズは色あせてしまった。
そして今年。前年から続投の渡邉監督は「挽回」と「献身」というキーワードを口にした。このキーワードには被災地のため献身的にプレーし、絶対に成績を挽回させるという意味が込められている。渡邉監督はチーム始動前のイベントから事あるごとに「復興はまだまだ道半ば。われわれは復興のシンボルとして戦う覚悟と決意を持って今後も進んでいかなければならない」と、被災地のためという言葉を口にした。