小林祐希、磐田時代に実感した食の大切さ 朝食を摂り始め、今ではけがとも無縁に

中田徹

負傷続きで1試合の出場にとどまった13年シーズン

13年シーズン、小林祐希は期待されながらも負傷続きで、1試合の出場にとどまった 【(C)J.LEAGUE PHOTOS】

 2013年6月、ジュビロ磐田の監督に就いた関塚隆との面接で、小林祐希はこう言われたのだという。

「俺以外のコーチングスタッフ、メディカルスタッフ、チームメート、サポーターを認めさせて、『小林祐希が必要だ』という声が上がったら、俺は使う。それまで、俺はお前を使う気はない」

 ちょうどこの時期、小林はメスト・エジルのプレーを見て、パス・アンド・ゴーの動きを欠かさなくなり、味方を生かすことで自分も生きる動きのインスピレーションを得る。練習試合でゴールやアシストをして調子が良かった。チームは残留争いをしており、フレッシュな戦力を必要としていた。

 関塚監督は「祐希、来週いくか。お前はすごくプレーがよくなってきている。周りもお前を認め始めている」と小林に告げた。血気盛んな21歳のMFのテンションは上がった。しかし、無情にも練習中に小林は左ハムストリングの肉離れを起こしてしまう。その日を今でも小林は「2013年10月3日」と鮮明に覚えている。

「祐希、早く治せ」。関塚監督は小林の復帰に期待した。だが、2週間後に練習復帰すると、また同じ箇所を痛めてしまった。負の連鎖は続く。3週間後に練習に復帰すると、今度は右ハムストリングを痛めた。1週間後にも同箇所を負傷し、小林祐希の13年シーズンは終わる。この年、小林のJ1出場はわずか1試合にとどまった。

根本的に自分自身を変えようと決意

 小林は「クラブのメディカルに問題がある」と疑っていた。しかし、「14年になった時に、これはもう本当にやばい。本当はジュビロからレンタル移籍しようと思っていた。(東京)ヴェルディに帰ろうかなとか、思ったけれど、それは甘っちょろい。それが、何かを変えようという動機になりました」と、根本的に自分自身を変えようとする意思もまた強かった。

 14年2月、鹿児島キャンプを訪れていた磐田のサポーター、鈴木稔唯さんに小林はこう尋ねた。「どこか浜松で朝ごはんをしっかり食べることのできる食堂はありませんか?」と。

「3食、しっかり食べようと思ったんです。自分は骨、関節、腱はけがをしないのに、筋肉だけそんなに切れるのはおかしいと思って、『これは食事だろう』と。俺は浜松に住んでいて、鈴木さんが浜松なのも知っていたので、知っているかもしれないと思って食堂を聞いてみたんです」

 それまでの小林の食習慣はアスリートとしてありえないものだった。以下、小林の述懐。

「まず、俺は朝ごはんを食べない人でした。練習前は栄養摂取ゼリーだけ。(東京V時代の)17歳、18歳、19歳のころは朝は食べない、昼の練習が終わってクラブで摂るか、牛丼屋に行くか。それから昼寝をして、起きたら面倒くさいから、また牛丼屋に行っていました。食事で体が変化するということを感じたことがありませんでしたから、スポーツ選手としての食事を真剣に考えていませんでした。たくさんけがをするまで、朝ごはんを食べなくても何も思わなかったんです」

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著者プロフィール

1966年生まれ。転勤族だったため、住む先々の土地でサッカーを楽しむことが基本姿勢。86年ワールドカップ(W杯)メキシコ大会を23試合観戦したことでサッカー観を養い、市井(しせい)の立場から“日常の中のサッカー”を語り続けている。W杯やユーロ(欧州選手権)をはじめオランダリーグ、ベルギーリーグ、ドイツ・ブンデスリーガなどを現地取材、リポートしている

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