楽天創設を知る最後のメンバー牧田明久 「日々前進」の野球人生を振り返る

週刊ベースボールONLINE

ファン感謝祭の中で行われた引退セレモニー。愛娘とともに、盟友・鉄平氏(右から2人目)も駆けつけた 【写真=BBM】

 ドラフト5位指名で大阪近鉄に入団した牧田明久。4年目に球団再編という大騒動に巻き込まれた。何とかつながったプロ野球人生。名将に鉄壁の外野守備を見いだされた。悔いなき終わり方ではなかったが、一歩ずつ成長してきた事実は代えがたい財産となった。11月23日、Koboパーク宮城に集まった2万人超のファンの前で、栗原健太、長谷部康平、そして牧田明久の引退セレモニーが行われた。最愛の娘2人から花束を受け取り、牧田の涙は止まらない。そして、その傍らには“盟友”の姿もあった。家族、仲間、恩師──。たくさんの人の支えのもとで、牧田の16年間は彩られたのだった。

大きかった鉄平の存在

──2001年に近鉄へ入団してから16年で現役生活を終えました。

 すごく期待されて入団したわけではなかったので、まさかここまで長くできるとは思ってもいなかったですね。ドラフトでは指名されるかされないかのボーダーライン。周りからは「大学に4年行ったつもりで頑張ってみろ」と(苦笑)。その4倍もできたわけですから。

──引退を決めるまでに時間はかかったのでしょうか?

 戦力外と言われた時点で、「楽天で終わりたいな」と思ったのが正直なところです。仙台には12年住んでいますし。移籍となれば単身で行くことになります。2人の娘に「移籍したら、離れることになるけど」ってやんわりと聞いたことがあったんです。すると「イヤ」と。そこですよね。やっぱり父親として、娘たちのそばにいてやりたいですから。長女が生まれたのが、右ヒジ遊離軟骨除去手術を受けた後の08年4月。その子が大きくなり、時の流れを感じますよね。下の子もパパが野球選手だったことを分かる年齢まで(プレー)できて良かったです。

──引退セレモニーには、家族とともに鉄平さん(現東北楽天ジュニアコーチ)の姿もありました。

 鉄平とは、入ったチームこそ違いましたけど、高卒01年入団の同期なんです。その当時、僕は近鉄で彼は中日。2軍戦で戦い、2年目のジュニアオールスターで仲良くなって。彼が06年に楽天へ移籍してきたときはうれしかったですね。遠征先では一緒に飯を食いに行ったり、常に行動をともにしていました。どちらかが調子が悪ければ励まし、両方悪ければ、傷をなめ合ったりしてね(笑)。

──引退の際は鉄平さんにその報告を?

 戦力外と言われたその晩に飯を食いました。「もうやめるわ」と言ったらびっくりしていましたね。「まだやれる。ダメだよ」と結構真剣に言ってくれて。それはうれしかった。鉄平は15年オフに引退しましたけど、春季キャンプ直前まで挑戦していましたから。鉄平の存在があったからこそ、僕も負けたくないと頑張ってこられたし、良き友でありライバルでした。

予想外だったドラフト指名

プロ16年間を振り返る牧田 【写真=BBM】

 華やかなスポットライトを浴びながら──。そんな現役生活ではなかった。1軍出場ゼロのまま直面した球界再編の波。そして生まれたての球団で直面した過酷な日々。数々の故障にも見舞われた。それでも困難を乗り越えることができたのは、ほかの一流選手に負けない“一芸”があったから。そして13年、プロ野球人生最大の歓喜が待っていた。

──福井県武生市(現越前市)で生まれ、お兄さんの影響で野球を始めたのが小学2年時。当時はお父様が熱心に指導されたようですね。

 野球を続けるにあたり、父の存在はめちゃくちゃ大きかったですね。自らネットを購入して打撃ケージを作ってくれたり、庭に赤土を入れてマウンドを作ってくれたり。野球をする環境を整えてくれたのが父だったんです。自営業で、金型を作る仕事をしていたので、得意分野だったのかもしれません。決して「やれやれ」というスパルタではなく、「8割の力でいいからきれいな回転の球を投げろ」と。小さいころにヒジや肩を痛めてしまえば、投げられなくなってしまいますからね。先のことを考えて、そんなふうに指導してくれたのだと。プロに入ってからもずっとそのイメージを持てていたと思います。

──中学を卒業すると、隣の市にある鯖江高に進学します。

 勝ち進んでも県ベスト4がやっとというチームでした。のびのびとやりたいことをやらせてもらえる野球部で。兄は指導者が厳し過ぎて野球をやめてしまったということもありましたから。その点では環境に恵まれていたと思います。

──高校3年秋、近鉄からドラフト5位指名されます。どんな心境で受け止めましたか?

 まさかですよね。当時、プロ志望届はありませんでしたから。スカウトの方が見に来てくださっていたのは知っていました。でも、指名できないみたいなことを人づてに聞いていましたから。欲しかったほかの外野手が取れなくて、下位で僕を指名したんじゃないですかね(笑)。

1軍出場ない状況での球界再編

01年ドラフト5位で近鉄入団(写真右奥)。当時の指揮官は現在と同じ梨田昌孝監督だった(中央右) 【写真=BBM】

──ルーキーイヤーから4年間、1軍出場がありませんでした。その4年目、「球界再編」というとんでもない事態に直面します。

 最初に目にしたのが新聞でしたから。「オリックスと近鉄が合併する」と……。普通、冗談だと思いますよね? 当時、僕ら選手はそこまで深くは考えていなかったんです。それが、あれよあれよという間に明るみに出て、本当だということが分かって。僕ら選手も梅田駅前とかに立って、球団存続への署名活動を行いました。

──年齢でいえばまだ大学4年生。そんな時期に……。

 野球ができなくなるのかな。当時はそんな不安な思いしかなかったですね。1軍選手なら移籍など選択肢があるでしょうけど、僕らファーム選手なんて……。

──結果的にオリックスと近鉄が合併し、楽天の新規参入で12球団は保たれました。そして牧田選手は分配ドラフトで楽天入りが決まります。

 一応、希望は聞かれたんです。オリックスに行きたいか、楽天に行きたいかと。僕は楽天に行きたいと言いました。オリックスには両方の主力選手が集まるわけですから、若い僕らにとってはチャンスが少ないですよね。それならば新しい球団に行きたいと。

──そして04年11月8日に分配ドラフトが行われました。

 最初はオリックス、近鉄のプロテクト選手25人が決まり、楽天がそれ以外の20人を指名しました。その後、オリックス、楽天の順に20人ずつ指名。どちらにも指名されなければオリックスに引き取られるんです。幸い、2回目に指名されて楽天に行くことができました。

1/2ページ

著者プロフィール

新着記事

編集部ピックアップ

コラムランキング

おすすめ記事(Doスポーツ)

記事一覧

新着公式情報

公式情報一覧

日本オリンピック委員会公式サイト

JOC公式アカウント