「知られざる欧州組」の現在地

海外挑戦を目指す若手選手へ“先駆者”宮市亮からの金言「自分に合ったレベルで試合に出続けるのが一番重要」

舩木渉

宮市は高卒で欧州に渡り、イングランド、ドイツなどで約10年間プレー。そうした自分の経験をもとに、海外挑戦を目指す若い選手への貴重なアドバイスも 【撮影:舩木渉】

 横浜F・マリノスの宮市亮は、高校からJリーグでのプレー経験がないまま欧州に渡った先駆け的存在だ。中京大中京高3年時の2010年12月に、イングランドの強豪アーセナルと契約。同クラブでは思うような結果を残せなかったが、約10年にわたりヨーロッパで奮闘した。現在32歳。ベテランと呼ばれる年齢になった快足アタッカーは、高校から直接ヨーロッパに行った自身の決断をどう考えているのか。そして、近年増えている高卒→海外進出という選択をどう見ているのか。

客観的に助言してくれるアドバイザーのような存在も必要

――宮市選手は18歳でアーセナルと契約し、高校卒業とともに海を渡りました。当時はほとんど前例がなかったなか、Jリーグを経ずに海外へ挑戦することを決めた経緯を教えてください。

 海外でプレーしたいと思った最初のきっかけは、14歳のときにフェイエノールトの練習に参加させていただいたことでした。もちろん幼少期からJリーグを見ていましたし、高校生になってからはJクラブの練習に参加させていただく機会もありましたが、テレビをつけると日本代表の選手がインタビューで「早く海外に行かなければ」「海外とは差があった」という話をしていて、漠然と「早く行かないといけないんだろうな」と感じていたんです。

 そうしたなか、日本では2009年にJサテライトリーグが廃止されてしまいました。一方、ヨーロッパ各国ではリザーブリーグがしっかり整備されていました。そして、アーセナルから提示された育成プランにも魅力を感じ、当時の僕はそこへ行くことが最も自分の成長につながるし、勝負してみたいと考えて決断しました。

――アーセナルから提示された育成プランとはどんなものだったのでしょうか?

 当時、メキシコ代表のカルロス・ベラ(現無所属)が期限付き移籍によって成長し、アーセナルに復帰したという事例がありました。アーセナルが、彼のように有望な若手選手を保有しながら期限付き移籍に出し、他のクラブで経験を積ませてアーセナルに戻すというやり方を始めたばかりの時期で、エミリアーノ・マルティネス(現アストン・ヴィラ/アルゼンチン代表)や数人のブラジル人選手たちと並んで僕もその計画の中に入っていたんです。アーセナルは僕が14歳のころにフェイエノールトの練習に参加したことも知っていたので、一度フェイエノールトに期限付き移籍し、オランダで力をつけて戻ってきてほしいと言われていました。

――フェイエノールトはオランダの強豪で、ヨーロッパのカップ戦にも出場するトップクラブです。14歳でアカデミーの練習に参加したとはいえ、プロでの経験が全くない18歳の宮市選手が活躍するには決して低くないハードルがあったのではないかと思います。

 いや、正直なところフェイエノールトに加入したころは「こんなもんか……」と感じていました。チームのスタイルも僕に合っていて、すぐに結果を出すこともできました。ただ、オランダで6カ月過ごしてアーセナルに呼び戻されたら何もかもが異次元すぎて……。当時は僕と同じように高卒でいきなり海外に飛び出した経験を持つ選手はほとんどいなかったですし、周りに助言してくれる人もいなくて、自分の置かれた状況と周囲の環境との間で感じていた葛藤を1人でどうにかしなければならなかった。それが何より難しかったですね。

――プロとしての競争のなかで自分が自分であり続けるための精神的な強さは非常に重要だと思いますが、宮市選手はどのように孤独な戦いを乗り越えてきたのでしょうか。

 メンタリティの強さが重要なのはもちろんですが、同時にサッカー選手としての自分に対して客観的に助言してくれるアドバイザーのような存在も必要だと思います。Jリーグの良いところは、プロサッカー選手とは何たるかを教えてくれる先輩たちがたくさんいること。一方で海外に行くと孤独な戦いになり、自分の力で這い上がっていかなければいけないし、サッカー以外の日常生活でも少なからずストレスがあります。

 若い選手にとっては日本で一人暮らしをするのも大変なのに、海外では言葉がわからないなかで生活を成り立たせなければなりません。「頑張る」と口で言うのは簡単ですが、実際に住んでみると大変なことばかりですし、買い物や食事、洗濯といった基本的なこともしっかりとこなさないと、サッカーに集中できないんですよ。

――アーセナル加入当時、宮市選手にはエージェントがいなかったそうですね。アドバイザーとしてのエージェントの重要性についてはどのように考えていますか?

 トゥエンテに移籍する(2014年夏)ころまでエージェントはいなかったですね。ボルトンやウィガンへ期限付き移籍する際は、基本的にアーセン・ベンゲル監督(当時)が窓口になっていて、金銭面の条件なども言われるがままでした。アドバイザーになるのは必ずしもエージェントでなくてもいいと思いますが、サッカー界に通じていて、キャリアにおける大きな選択をするときに相談できる存在は間違いなく必要です。特に若い選手にとっては重要だと思います。

いろいろな進路があるがどの道でも全て正解

アーセナルには2011年1月から15年6月まで所属。他クラブに武者修行に出ていた期間も長かったが、トップレベルの選手たちの中で揉まれた 【Photo by David Price/Arsenal FC via Getty Images】

――ヨーロッパでは育成年代でも頻繁に選手の入れ替わりがあり、ある程度プロの競争とは何たるかを知った状態で18歳、19歳になります。一方、日本でプロになる選手たちは所属チームで試合に出て当たり前で、高校やユースであれば3年間ほとんど選手の入れ替えがありません。こうした育成システムの違いは同じ年齢でもプロ意識や競争に対する考え方に大きなギャップを生むのではないかと感じています。

 まず前提として、高校を卒業して大学に進学する、Jリーグでプロになる、僕のように海外へ渡るなどいろいろな進路がありますが、どの道に進んでも全てが正解だと思っています。ただ、どういうキャリアを歩んだとしても、何より重要なのは自分に合ったレベルで試合に出続けることなんです。特に18歳から20代前半でどれだけ多くの試合経験を積めるかは非常に重要になります。

 ヨーロッパでは20代前半までに多くの試合に出なければいけないし、それが当たり前という価値観が浸透していて、もし試合に出られないならカテゴリーを下げて移籍します。最終的に目指すゴールは同じで、そこにたどり着くための道は人それぞれ。僕の場合はプロとしての自分を仕上げていく途中で急に世界のトップレベルに飛び込んでしまいました。

 当時はイギリスで21歳までの3年間プレーすれば国内選手扱いになれたので、ベンゲル監督からも「戻ってきてほしい」と直接言われていましたし、僕もアーセナルに戻りたいからフェイエノールトで頑張っていたんですが、今になってみれば18歳の宮市亮は自分を客観視できていなかった。なので、育ってきた環境どうこうよりも、まずは自分のレベルに合った環境で試合経験を積んでいくことが何より重要なのだと考えるに至りました。

――宮市選手はアーセナル時代にリザーブリーグでもプレーしていました。プロ選手として試合経験を積むにはトップチームの公式戦ではなく、同世代の選手が多いリザーブリーグでも意味があると考えていますか?

 トップチームかリザーブチームかは関係なく、どこでプレーしていようと、その場所で抜きん出ていかないと蹴落とされていくのがプロの世界です。そうやって競争するなかで成功体験を積み重ねていくと、次第に「ここにいてもこれ以上は成長が望めないな」と物足りなく感じるようになります。それがステップアップのタイミングです。

 例えばインテルで活躍しているステファン・デ・フライは同い年で、僕が加入したときはすでにフェイエノールトの主力を担っていました。でも、彼は僕がチームを去った後もずっとフェイエノールトにいて、ラツィオに移籍したのは2014年。インテル移籍はさらに4年後ですし、着実にステップアップしていった選手の好例だと思います。

 同じくチームメイトだったジョルジニオ・ワイナルドゥム(現アル・エティファク)もフェイエノールトを巣立った後、リバプールへ行く前にPSVとニューカッスルでのプレーを挟んでいます。彼らのように自分の年代や実力に合った環境をどれだけ客観的に選べるかは非常に重要です。

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著者プロフィール

1994年生まれ、神奈川県出身。早稲田大学スポーツ科学部卒業。大学1年次から取材・執筆を開始し、現在はフリーランスとして活動する。世界20カ国以上での取材を経験し、単なるスポーツにとどまらないサッカーの力を世間に伝えるべく、Jリーグや日本代表を中心に海外のマイナーリーグまで幅広くカバーする。

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