楽天創設を知る最後のメンバー牧田明久 「日々前進」の野球人生を振り返る

週刊ベースボールONLINE

野村監督に評価され1軍定着

武器は強肩と広い守備範囲。鉄壁の外野守備でチームを支えた 【写真=BBM】

──牧田選手は楽天創設時を知る唯一の現役選手でした。当然、1年目の苦労も身をもって味わっています。

 ある意味、寄せ集めでしたし、負けて当たり前のチームでしたからね。僕はファームだったのですが、そちらもつらかったですよ。

──具体的には?

 当時、ファームの本拠地は山形で、毎日、仙台からマイカー通勤していました。長距離ですし、高速代、ガソリン代もかさんでしまう。節約のために仙台−山形間の高速バスを利用したこともありました。給料が高い人はいいでしょうけど、若手にとっては過酷でしたね。創設当初ということで環境が追いつかないということもあったと思います。

──引退セレモニーでは「たくさんの名将の下でプレーできた」という言葉もありました。06年就任の野村克也監督から守備力を評価され、「専守防衛の自衛隊」と呼ばれることも。

 あのころ、守備固めとして1軍に定着することができましたからね。肩はもともと強かったので。僕を見いだしてくれて、プロ野球の世界でプレーできるチャンスをくれたのが野村監督。本当に感謝しています。

──そして13年に球団初のリーグ優勝、日本一を手にします。4月に左手首を故障して離脱、戦列に復帰したのは7月末でした。

 ケガをして思うようにプレーできなかったシーズンですけど、クライマックスシリーズ、日本シリーズに何とか間に合った。日本一の大舞台で本塁打を打つことができたし、歓喜の輪に入ることができ、最後に報われたなという感覚でした。

ジュニアコーチとして再出発

ラストイヤーとなった16年はわずか16試合出場にとどまったが、そのうち2試合で3安打の猛打賞 【写真=BBM】

 引退を迎えるにあたり、頭の中に浮かんだのは一つの言葉だった。幼いころからプロ野球の世界に憧れ、プロに入ってからもスター選手の背中を追いかけた。その道は険しいものだったが、諦めずに継続したことが「16年」という年月に結びついた。自らが貫いたポリシーを、若い世代に受け継ぐ決意だ。

──背番号は近鉄入団したときも、楽天に移籍してからも「63」。

 誕生日(6月3日)ですね(笑)。近鉄で空いていたので「よっしゃー!」と。新庄さん(剛志、元北海道日本ハムほか)が最初、この番号でしたし。同じ外野手で、華麗なプレースタイルにあこがれていましたから。楽天入団時には希望していただきました。12年から4シーズン着けた「5」も新庄さんと同じですよね。これは星野(仙一)さんが「着けろ」と(笑)。

──今後は楽天のジュニアコーチとして育成する立場となります。

 現役時代から野球教室とかもありましたからね。教えることに関しては初めてではないので。少子化や、野球離れということも言われていますから、まずは底辺をしっかりと拡大するお手伝いができればと考えています。もちろん、将来的には指導者としてプロ野球の世界に戻ってきたいと思っているので、まずは子どもたちの指導をしっかりやりたいと思います。

──野球ができなくなるかもしれない。そんな危機を乗り越えて仙台に来ました。そして唯一の生え抜きとして12年間チームに在籍。その間、応援してくれたファンの方々の顔も目に浮かんでいるはずです。

 そうですね、東北、仙台のファンは本当に温かいんです。外野を守っていたので、ファンの皆さんとは常に近い距離でプレーしていましたけど、ヤジなんてまず飛んで来ないですから。それに比べて大阪のヤジは……。2軍でも容赦ないですから(苦笑)。僕は福井出身で、京都の隣なんですけど、北陸の方言は東北なまりに近いんです。だから関西弁は怖かった……。その分、東北に来てどこかホッとしたことを覚えています。

──そんな温かい声援が牧田選手の背中を押してくれた。

 そうですね。「ありがとうございました」という言葉しかないですよ。プロ野球人生を振り返れば、バーンとブレークするような時期はありませんでした(苦笑)。本当にゆっくりでも一歩ずつ、地道に地道にやってきたから今がある。「日々前進」。第二の人生がスタートしますけれど、何事にも挑戦することに変わりはないはず。自分らしく、指導者としても日々前進できるよう、努力していくつもりです。

(取材・構成=富田庸)

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