【シードリング】 20周年を迎えた高橋奈七永の本音 次の目標は「世界一強い女になる!」
11日のシードリング後楽園大会で20周年記念試合を行う高橋奈七永 【スポーツナビ】
レスラー人生20周年を迎えた高橋奈七永。全日本女子プロレスでデビューし、最後のWWWA世界シングル王者になった。全日本女子解散後はフリーで活動して多数の団体に参戦したり、プロレスリングSUN、スターダムといった団体にも所属したが、昨年、自身でシードリングを立ち上げた。
今回はその20年を振り返ってもらい、さらに20周年興行で対戦するセンダイガールズプロレスリングの里村明衣子&DASH・チサコ戦について、そして21年目からの意気込みを語ってもらった。
「辞める、辞める」と言い続けた20年
「私、やたら「辞める、辞める」って言い続けて20年」と振り返る 【横田修平】
思ってない! 私、やたら「辞める、辞める」って言い続けて20年(苦笑)。
――奈七永選手の場合、最初の団体(全日本女子プロレス)が潰れてしまったこともあって、その後フリーになったり新しい団体に参加したりと、渡り歩いてきた印象があります。今、振り返ってみてそれは良かったですか? それともどこかひとつの団体に腰を据えてやってみたかったですか?
私は今の女子プロレス界に本当の意味でやり合える相手が少なくなってきて……。というより、もういないと思うぐらいなんです。ここに辿り着くには全部のキャリアが必要だったと思っているので、これが私の人生であり、生き方なんだなと思います。
――ただ、先日の座談会(※)の時にも少し話が出ましたけど、女子プロレスは団体が増え過ぎたことが、人気衰退やファンの奪い合いといった原因のひとつだと思います。いくつかの団体を渡り歩き、新しい団体を立ち上げた奈七永選手はその辺のことをどうお考えですか?
もうそれはダメだとずっと思ってきましたよ。そもそも私が2年目の時に全女は倒産したんですけど、そこで選手の大量離脱があって団体が増えていったんですけど、その頃は新しい組織を作るなんてしちゃいけないって思っていたし、フリーになるなんてこともおこがましいと思っていましたから。プロレスラーっていうのは、ちゃんとした団体に所属してやっていくものだっていうのが、根っこにありましたから。
※スポナビ×ニコプロの企画でGAMI、藤本つかさと上半期を振り返る座談会を開催。
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だからこそ自分が動くときはすごく慎重になったし、やっちゃいけないことをやっているんじゃないかっていう迷いもありました。でも今はシードリングを作ってよかったなと思えるところに辿り着きましたね。
あの頃、“高橋奈苗”は死んでいた
最近では若手の壁となる試合が多く、自身を出せていなかった部分もある 【横田修平】
そうですね。今、自分にとっていいことしか起こらないような気がしているんですよ。すごい前向きなんです。嫌なことがあっても「これは自分が大きくなるための試練だ」としか思わない。ここから高橋奈七永にちゃんと実がついてくるような気がして、自分ですごく可能性を感じます。
――20年目にしてこれから可能性を感じるっていうのはすごいですね! 振り返ってみると、旗揚げから参加したスターダムを軌道に乗せ、愛川ゆず季さんを立派なプロレスラーにし、世志琥という後継者を育てた。盟友・夏樹☆たいよう(現:南月たいよう)を送り出し、メインイベンターの座も何となく後輩たちに譲るようになった。あの頃は“プロレスラー高橋奈苗”の総仕上げに入っているように思えたのですが……
今そうやって言われて思い出したんですけど、私は死に場所を求めてスターダムに入ったんですよ。だからフリーじゃなくて、ちゃんと団体に所属して後輩を育てるってことを一生懸命やりましたね。“ナナエイズム”じゃないですけど、プロレスは闘いなんだよってことを必死で伝えて……。これってある意味で自分の商売道具じゃないですか? それをためらうことなく全部後輩たちに教えていましたね。スターダムに入る前まではそんなことしなかったですから。
――自分の持っているものをすべて後輩に伝授して辞めていこうと?
そうですね。でも今にして思えば、与えられたものの中でただ必死に泳いでましたね。別にまだ辞めることを考えなくたってよかったんですけど、あの頃はプロレスラーとしてどうやって辞めようかと考えてました。
――当時もたまに他団体で試合をすることがありましたが、その時はすごく明るく「パッショーン!」って弾けた試合をするのに、自分の団体では試合とは別の部分で苦しみながらというか、どこか抑え付けながら闘っていたような気がします。
何か全然ダメだったと思う。でもやっぱり旗揚げ戦がデビュー戦の人たちと本気ではできなかった。それがいつしか“下に降りていく”やり方になっていて、リング上でもリング外でも「私はこうだ」って言えなくなってましたね。そういう意味では“高橋奈苗”は死んでいましたね(苦笑)。
――死んでいた!? まあ当時は“プレイングマネージャー”という肩書きというか立場もありましたし、自分を押し殺してでもやらなければいけないことともあったでしょうね。
そういうのもありましたね。本来大人げないのが高橋奈七永なのに(苦笑)。自分の持つ個性を「こうあるべきだ」みたいなもので塗りつぶしていたというか、大人ぶっていましたね。もしかしたら他のやり方だってあったし、大人げなくだってできていたかもしれない。変な話、放棄したってよかったのかもしれない。でもその時は自分が未熟だったんですよね。だからいいことも悪いことも勉強になりました。
現役継続のきっかけになったのが世志琥
いつ辞めてもおかしくないと思っていた中で、世志琥が現役続行のきっかけにもなった 【横田修平】
絶対辞めてました! 20周年とか別にこだわりはなかったんで、その前に辞めてましたよ(苦笑)。
――えぇ! じゃあ奈七永選手としては、もう引退に向けて最後の花道を歩もうと思っていた頃に、世志琥選手と安川惡斗さんのあの事件が起きてしまって運命が変わったんですか?
はい。私、要所要所でケガとか病気をするタイプなんですけど、それが入院するくらいのレベルになると大体そこから運命が変わるんですよ。はじめはヒザのケガで入院しているときに全女の解散が決まった。次はSUNのときに急性腸炎になって、自分が代表でやっていたんですけど、「これはもう限界だ。辞めよう」って思いましたね。で、3回目が世志琥のことがあった直後に、足のケガで手術をして入院したんです。
――入院したことによって考える時間はありましたよね。
そうですね。いろいろ考えて、自分の変わり目がまた来たのかなって思いましたね。う〜ん、でももっとうまく生きられればこんなふうにならないんですけど……
――確かに器用なタイプではないと思いますが、不器用なほうが奈七永選手らしいですよ(笑)。
ハハハハハ。本当に不器用過ぎて、自分で自分が嫌にもなるんですけど、だから楽しいんだと思うし。あの入院も世志琥の件がある前から決まっていたんですよ。いつまでプロレスができるか分からないけど、痛みの不安を抱えるままリングに上がるのが嫌で。引退に向けて思いっきり試合ができるようにって思って手術することにしたんです。だから、あそこからまさかこういうふうになるとは、あの時点ではまったく思ってなかったですね。
――最終的に引退ではなく退団しようと思った最大の理由は、やはり世志琥選手ですか?
良くも悪くもきっかけを与えてくれたのが世志琥ですかね。今思えば世志琥にレスラー生命を延ばされたとしか思えないですね。そもそもスターダムで誰が私に食らい付いてきたって言ったら、世志琥と彩羽匠(マーベラス)だったんですよ。お客さんから見えているリング上だけじゃなく、練習とかでも「もっと教えてください!」って言ってきたのはその二人だったんで、私が持つものを全部伝えられるかなと思えた選手だったので。
――でもシードリングを立ち上げた時点では、世志琥選手がプロレス界に戻ってくるかどうかも分からなかったんですよね?
分からなかった。でもあの一件を「これがプロレス」と思われたらいけないって思った。何もできなかった自分が悔しいし、変なふうに世の中に伝わってしまったことも悔しい。そしてこれだけの可能性を持った世志琥が、こんなことで潰されるのが悔しかった。あの悔しさは忘れられない! 私は夢を持つ子がこんなことになってはいけない、こんな世界ではダメだって思って。誰かがどうにかしないといけない、だったら私がやらないといけないって思ってシードリングを始めました。世志琥が戻ってくるまでもいろいろなことがありましたけど、プロレスってやられても受け身を取って、それでも立ち上がるじゃないですか? それってプロレスだけじゃなくてすべてにおいてそうだなって思いました。そのことを20年かけてすごく教わりましたね。
――20年プロレスをやってきて、プロレスの基本というか原点でもある「やられても受け身を取って立ち上がる」という部分に戻った感じですね。
そうですね。どんどんシンプルな考え方になってきましたね。プロレスって基本シンプルなんですよ。プロレスって闘いなんです。