あるコーチが柔道整復師に転身した訳 野球と治療が融合した環境を求めて……

中島大輔

熊澤氏は西武のコーチを退任後に、柔道整復師の資格を取得した 【スポーツナビ】

 悩みに悩んだあの時期を思い出すと、今も食事が喉を通らないような感覚がよみがえってくる。

 その男は、現役選手としてはプロ野球でインパクトを残せなかったものの、身体の機能を突き詰めた理論、ぶれない指導方針で打撃コーチとして確かな評価を得ていた。実際、埼玉西武時代に教えを受けた栗山巧や浅村栄斗は、彼の後押しが大きかったと振り返っている。

 そんな熊澤とおるに大きなオファーが届いたのは、2013年秋のことだった。ある球団からコーチの要職として、好条件での就任を要請された。
 揺れに揺れた末、熊澤は固辞する。魅力的な仕事ではあるが、もっと大事な「理想」があったからだ。

 当時、熊澤は柔道整復師の国家試験を受けるために専門学校へ通っており、あと1年経てば、資格習得が見えるところだった。その道が結実したのが、15年5月、埼玉県入間市の武蔵藤沢駅前に開いた入間整骨院だ。

「もともと身体に興味がありました。野球選手にとって、一番大事なのはケガをしないフォーム。そこがちゃんとされていないと、選手としていいものができない。米国の医療体制やメジャーリーグの現場を見たときに、より強い思いになりました。子どもたちにとって、いろんな選択肢の中でいいリハビリや医療ができるようになればいい、と」

松井稼頭央が拒絶した「開く」という言葉

 熊澤は05年オフ、メジャーで思うような活躍をできずに苦しんでいた松井稼頭央をパーソナルコーチとして支えるべく、渡米する。2歳離れた2人は現役時代から野球の感覚に共通するものがあり、松井は先輩を慕っていた。熊澤は現役引退後、西武の2軍サブマネジャーに就任し、独学した運動動作やトレーニング方法を松井に教えた。すると松井に本塁打が飛び出し、二人の関係はより密になっていった。

 松井は熊澤との二人三脚で07年にロッキーズの正二塁手としてワールドシリーズ出場に貢献する活躍を見せた一方、熊澤も一流アスリートの松井から多くを学んだ。とりわけ06年シーズンに起こった出来事は、コーチとして、そして現在は治療者としての礎になっている。

 当時、腰痛を抱える松井は3Aのコロラドスプリングスでプレーしていた。ある日の夜、デービッド・オルティス(レッドソックス)の打撃をテレビで見ながら、左打席でどうやって打つべきかという話になった。そこで熊澤が「もう少し早く開いて」と言うと、松井が拒絶反応を見せたのだ。

 熊澤にすれば、松井の課題を的確に説明したつもりだった。本来、スイングでは身体が開いていかないと打てないので、熊澤は「もう少し早く開いて」と話した。

 しかし、松井は「開く」という言葉が受け入れられなかった。子どもの頃からコーチに「開くな」と指導されてきたため、熊澤の意図が理解できなかったのだ。

 2人の解釈が一致したのは、熊澤が表現を変えたときのことだった。テレビで試合を見ていて、思わず松井に語りかけた。

熊澤:見ろ。ほどいただろ?
松井:熊さん、なんて言いました?
熊澤:ほどいただろ?
松井:それなら、分かります。

 熊澤は「開く」と「ほどく」を同じ意味で使ったが、松井にとって「開く」は良くない打ち方の代名詞だった。トップの位置からいかに腰を回転し、スイングする手を連動させて出していくかというイメージを理解するには、松井にとって「ほどく」という言葉こそ適切だったのだ。

「えっ、こんなことがあるんだと思いましたね。そのおかげで指導者のときはもちろん、現在治療をする上で、どの言葉を使えば伝わるだろうかっていつも考えるようになりました。野球で言えばうまい子、患者さんで言えば会社で役職にあるような方は、事前にネットで調べてきたりします。そういう方にこっちの話を伝えていくには、話術ではなく、言葉がすごく大事です」

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著者プロフィール

1979年埼玉県生まれ。上智大学在学中からスポーツライター、編集者として活動。05年夏、セルティックの中村俊輔を追い掛けてスコットランドに渡り、4年間密着取材。帰国後は主に野球を取材。新著に『プロ野球 FA宣言の闇』。2013年から中南米野球の取材を行い、2017年に上梓した『中南米野球はなぜ強いのか』(ともに亜紀書房)がミズノスポーツライター賞の優秀賞。その他の著書に『野球消滅』(新潮新書)と『人を育てる名監督の教え』(双葉社)がある。

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