オシムさんとW杯―元通訳・千田氏が語る 監督としての苦悩、日本へのメッセージ
元日本代表オシム監督の通訳である千田氏が、オシム氏とW杯の関係について語る 【写真:AP/アフロ】
オシム氏が日本代表を指揮していた期間、通訳を務めていたのが千田善氏だ。旧ユーゴスラビアをフィールドとする研究者として、10年近く同国で生活した経験を持つ千田氏は、独特な視点を持つ名将の考えや言葉に絶えず触れてきた。オシム氏とW杯の関係について、語ることができる数少ない日本人と言えるだろう。今回はそんな千田氏に執筆いただいた。
W杯は「世界のトレンドを決める国際見本市」
一時は、FIFA(国際サッカー連盟)から制裁処分を受け、ボスニア代表は予選にすら出場できなくなるところだった。オシムさんがボスニアのサッカー連盟正常化委員会責任者(事実上の会長代行)として連盟内の民族対立をおさめ、資格を回復させたことは、テレビでも取り上げられてきたので、ここでは繰り返さない。
オシムさんは、よくいう。──W杯とは、世界一を決める国別対抗戦であると同時に、「その後の数年間の世界のトレンドを決める国際見本市」のようなものだ、と。
W杯で登場した新しい戦術や優勝国のスタイルは、各国の指導者も注目・研究する。Jリーグでも数カ月から1年ほどで見られるようになる。そういう意味で、近未来のサッカー界の動向を占うことのできるショーウインドーなのだ。
ブラジル大会についていえば、優勝候補は3カ国。連覇を狙うスペインの「ティキタカ(チクタクと時計が動く様子)」スタイルか、かつてのフィジカル一辺倒からテクニックを身につけた若手が育っているドイツのダイナミックなフットボールか、あるいはルイス・フェリペ・スコラーリ監督のもとで“規律あるブラジル”を目指す地元「サッカー王国」なのか。
どこが優勝するにせよ楽しみだ。勝敗のほかに、「新しい戦術」が登場するのか否かに注目するのも面白いだろう。
たとえば、オシム監督のユーゴスラビア代表(1990年イタリア大会で8強)は4−4−2のFWが縦並びの4−4−1−1で、流れの中で4−3−3にも4−2−3−1にもなる柔軟なシステムだった。これは88年当時、マンチェスター・ユナイテッドのアレックス・ファーガソン監督も研究したそうだし、「4−2−3−1の発案者」98年のオランダ代表フース・ヒディンク監督などへと受け継がれていった。
イタリア大会の優勝国は西ドイツでシステムは3−5−2。この後、世界中で3バックが流行したが、オシムさんの戦術はそれとは違った発想の新しい戦い方だった。当時のユーゴスラビア代表のエースだった名古屋グランパスのドラガン・ストイコビッチ前監督は「20年以上も前に、僕らは最先端のフォーメーションを採用していたんだ」と、オシムさんとの対談で自慢げに話していたのだが、これもちゃんとした理由があってのことだった。
民族問題に悩まされた90年大会
オシム監督時代のユーゴスラビアは、民族主義が激化しつつあったので、さまざまな政治・民族問題がらみの圧力がかけられた。最も多かったのは「うちの選手を使え」という各民族指導者やマスコミからのプレッシャーだったが、独立を目指す地域からは反対に、選手への「次の試合に出場したら家族に危害を加える」という脅迫もあった。
オシム監督にとって痛恨だったのは、90年大会の準々決勝のアルゼンチン戦の直前に、こうした脅迫があったことだ。オシム・チルドレン第1号ともいうべきチームの柱、スロベニア出身の守備的MFスレチコ・カタネツが出場できないと言ってきたのは試合の前日。オシム監督は「仕方がない。家族の方が大事だ」と涙をのんでカタネツを先発から外した。
歴史に「もし」は禁物だが、カタネツが出場していたら、おそらくディエゴ・マラドーナへのマーク役(レフィク・シャバナジョビッチ)が前半31分で退場になることもなく、延長を含む残りの89分間を11人対10人で戦うハメにはならなかったのではないか。もしカタネツが出ていたら、もし退場がなかったら、ユーゴスラビアが……という妄想が膨らんでしまう。
思わぬ形で民族対立や独立運動の余波をかぶってしまったオシムさんなのだが、こういうわけで、アルゼンチンとの関係ではあまり運がいいとは言えない。W杯初出場のボスニア代表の初戦の相手が、ほかならぬアルゼンチンだということに、奇妙な因縁を感じるのは筆者だけだろうか。
ちなみに現ボスニア代表は昨年秋にもアルゼンチンと親善試合を行い、この時はリオネル・メッシ抜きのチームに0−2で完敗している。さまざまな意味をこめて、ボスニア代表はアルゼンチンにブラジルの地で「リベンジ」を果たすことができるだろうか。