真のプロクラブを目指す長崎が歩んだ道=J2漫遊記2013 V・ファーレン長崎
抱き続けた「小嶺イズム」に対する葛藤
初のホームゲームを終えてバックスタンドの観客にあいさつする長崎の選手たち。クラブ立ち上げに尽力した小嶺前社長は何を思ったか 【宇都宮徹壱】
小嶺の経歴については、今さら多くを語る必要はあるまい。1977年、母校でもある島原商業高校を率いて、インターハイで初優勝(長崎県勢としては初)。国見高に転じてからは、インターハイ優勝5回、全日本ユース選手権優勝2回、高校選手権優勝6回という金字塔を打ち立て、押しも押されもせぬ高校サッカー界のカリスマとなった。その教え子は、高木琢也(現長崎監督)や大久保嘉人(現川崎フロンターレ)をはじめ、元日本代表やJリーガー、そしてJクラブ監督にまで及ぶ。それゆえ小嶺は、長崎に生まれた初のプロサッカークラブであるV・ファーレン長崎の「生みの親」と評されることも少なくない。
確かに小嶺忠敏という高校サッカー界のカリスマがいなければ「長崎にプロサッカークラブを!」という機運が高まることはなかっただろう。また、地元の経済界や政界に顔が利くことから、国見高を退職すると自らクラブの社長に就任、長崎が全国で戦えるだけの基盤づくりに多大なる貢献をしたことも忘れてはならない。しかしながら、長崎がJクラブとなるためには、小嶺ひとりの力ではどうにもならない領域があった。それは「真のプロサッカークラブとなること」――換言するなら、それは長崎というクラブが当初持っていた「国見らしさ」とか「小嶺イズム」といったものを否定することであった。
つまりこういうことだ。V・ファーレン長崎の設立には、小嶺の存在は不可欠であったが、クラブが本当の意味でのプロフェッショナルを目指すためには、ある時点で恩義ある「小嶺先生」を否定せざるを得なかったのである。私自身、縁あってこのクラブを設立当初の2005年から節目節目で見てきたが、そこで常に感じたのが、当事者たち(フロント、選手、サポーター)の「小嶺イズム」に対する葛藤であった。それは具体的にはどのようなものであったのか、当事者たちの証言を交えながら振り返ることにしたい。
立ちはだかる地域決勝とスタジアム問題
クラブ発足の05年からずっとフロント業務を続けてきた溝口部長。06年の地域決勝を突破すれば「1〜2年でJに行けた」と語る 【宇都宮徹壱】
セレッソ大阪から小松塁(現大分トリニータ)、アビスパ福岡からGKコーチ兼任の塚本秀樹、ツエーゲン金沢から木村龍朗など、現役および元Jリーガー8名を期限付き移籍で獲得。さらに強化コーチとして、S級ライセンスを持つ小林伸二(現徳島ヴォルティス監督)まで招へいした。小林は、小嶺の島原商業高時代の教え子。ほかの選手たちも、大半が小嶺がよく知る顔ぶれであった。かくして、レギュラーシーズンとはまったく異なる「最強チーム」が長崎に出現することになったのだが、結果は決勝ラウンド3戦全敗の4位でJFL昇格はならず。即席で「最強チーム」を作ったところで、必ず勝ち抜けるほど地域決勝は甘い大会ではなかった。
当時、ウルトラス長崎のコールリーダーだった植木修平は「わたしも小嶺さんのことは非常にリスペクトしているんですけど」と前置きした上でこう語る。「チームになっていなかった、というのがあの地域決勝の敗因でしたね。でもそれ以上に、クラブ内に小嶺さんに意見できない雰囲気があったのも問題だったと思います」。一方で、この時に地域決勝を突破できなかったことが、後に長崎を苦しめることになったことも留意すべきであろう。運営事業部・運営グループ部長の溝口透馬の証言。「あそこで昇格していたら、おそらく1、2年でJ2に上がれていたと思います。その後、年を追うごとにスタジアムなどのハード面でJ昇格の基準が細かく整備されましたから」
結局、長崎が地域決勝を突破したのは、クラブ発足から4シーズン目の08年のこと。翌09年からはJリーグ準加盟クラブとなり、晴れてJFLで戦うこととなったが、そこで新たに立ちはだかったのがスタジアム問題である。ホームスタジアムとなる諫早市の県総が14年に向けて改修されるのにあたり、代替施設としていた長崎市営かきどまり陸上競技場が「Jリーグ基準を満たしてない」として、2年連続でJリーグ入会予備審査を通過できなかったのである(ほかにも財政基盤のぜいじゃくさやホームでの平均入場者数が3000人を越えていないことなども問題視された)。この厳しい現実を受けて10年のオフ、小嶺は社長を辞任。ひとつの時代が終わった。