羽生結弦、人生を変えた原体験 写真で切り取るフィギュアの記憶
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【写真:Enrico Calderoni/アフロスポーツ】
この11−12シーズンは、仙台在住の羽生にとって、東日本大震災と切り離して考えることはできないシーズンだった。地震の瞬間は仙台のホームリンクで練習中。スケート靴を脱ぐこともできずにリンクから逃げ出し、その後4日間は避難所生活も経験した。リンクは営業停止となり、各地のアイスショーを巡りながら、その幕間を練習する時間にあてる。多くの人からの支えで練習する日々が続いた。
シーズンが始まると、メディアからは「被災地代表としてのコメント」や「被災地へのメッセージ」を求められる。そのたびに羽生は優等生の答えを繰り返した。
「僕が元気に演技することで、日本の皆さんに元気を出してもらえれば。そして被災地の方々のために演技したい」
しかし心と頭は乖離(かいり)していた。自分は仙台に住んではいたものの、津波の被害には遭っていない。仙台空港周辺のがれきの山と、進まない復興の状況を目の当たりにするたび、心の中では「僕が頑張ることで被災地の人たちを元気づけたいなんて自分勝手。被害の深刻さはそんなものではない。自分ができることは、本当は何なのか」と葛藤した。
そして迎えた2012年3月、初出場となる世界選手権である。「世界選手権という名前だけでちょっとビビってしまった」というSPは「4回転+3回転」が「4回転+2回転」に、3回転ルッツが1回転になり7位発進と出遅れた。
「4回転を跳べたことは、来季に向けてのステップになりました。この特別なシーズンにこの舞台まで上がってこられた。『皆で前を向いて、目標まで進もう』というメッセージを、FSでは最後までやり切ることで伝えたいです」
【坂本清】
FSへの闘志は湧いてこない自分に、違和感を覚えたのはその夜のことだ。自分の心を見つめなおす。思い出すのは、震災後にたくさんの手紙やメッセージをもらったこと。多くのショーの会場で練習させてもらったこと。そして自分はずっと出たいと思っていた世界選手権の大舞台に来ていること。そして気づいた。
「被災地のために、何かしよう、元気を出してもらおう、という気持ちで滑っていたけど、僕たちは逆に支えられている、元気をもらっている立場なんだということに気づきました。僕が1人でスケートをしているんじゃない」
『被災地のために』という立場ではなく、『応援されている』立場であることを思い出した。あくまでも自分は被災者代表ではなく、日本代表のスケーターなのだ。するとFSはいつもの強気の目で現れた。
冒頭の4回転を成功。トリプルアクセルも次々と決める。最後の3回転サルコウを降りると、音楽をかき消すほどの手拍子が彼の心拍とユニゾン(調和)していく。最後のストレートラインステップの前で羽生が雄叫びを上げると、会場のボルテージは最高潮に。観客の興奮と羽生の闘志が溶け合い、大きなうねりが生まれた。そして曲が鳴り終えると、羽生は猛々しい表情のまま、ゆっくりと右手を天へと突き上げていく。観客の心も、その指先から天へと吸い上げられていくようだった。
【写真:Enrico Calderoni/アフロスポーツ】
「やっと。やっと多くの日本の方、被災地、テレビで観てる人、そういう声援のパワーをしっかり受け取れたなという気持ちです」
17歳、世界選手権初出場でのメダル。それは単なる「世界3位」という栄誉ではない。自分にとってスケートとは何なのかを、しっかりと認識する体験だった。
その春。長かった震災シーズンを振り返り、彼は大人びた顔で言った。
「昔は、五輪で金メダルというのがゴールだった。でも震災があって、いろいろな人に支えられて、今は変わった。もう自分だけのスケートではない。皆の力や支えが僕のスケートになり、それで結果が出れば恩返しになる。五輪で金メダルを取ることは、ゴールではなくスタート。支援活動とか恩返しのスタートになるのが、五輪の金メダルなんだ」
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