羽生結弦が抱く仙台への特別な思い 「信じること」の大切さを実感した5年
一時は「スケートを辞めようかな」
「生まれた土地ですからね。そこで育ってスケートと出会った。そうじゃなかったら今の僕はなかったと思います。もしかしたら野球をやって有名な選手になっていたかもしれない(笑)。やっぱり自分の生まれた土地があったからこそ、僕はここにいると思うので、仙台への思いは強いのかなと感じます」
もちろん、自分の育った地に愛着があるのは当然のことだろう。カナダを拠点とし、世界を転戦していれば、なおさら望郷の念に駆られることもあるはずだ。ましてやあのような未曾有の危機に直面したのだから……。
「本当に生活することすら難しくて、ぎりぎりの状態でした。亡くなった人もたくさんいましたし、スケートをやっている場合ではないと。でも水や食料を供給してもらって、たくさんの人に支えられていると感じたんです」
小学生時代に指導を受けていた都築章一郎の勧めもあり、師がいる神奈川スケートリンクに身を寄せた羽生は、そこで練習をしつつ、チャリティーアイスショーで各地を回った。都築は当時の羽生の様子をこう語る。
「震災後に会ったとき、『この子は今後スケートを続けていけるのか』と感じるくらい憔悴(しょうすい)していました。声をかけるより見守るしかなかったです。それでもアイスショーに出ているうちに立ち直ってきた。そういう状況の中でも彼は非常に冷静で、自分の技術に対して取り組む姿勢がしっかりしていた。それは大したものでしたね」
五輪で優勝しても表情はさえず
しかし、五輪で優勝したというのに羽生の表情はさえなかった。
「(フリースケーティングで)ベストな演技ができなかったのもそうだし、実感が湧かないというのもそうなんですけど、やっぱり震災のことが大きいです。本当に何と言っていいか分からないですし、自分に何ができたかというと、自信を持ってこれができたというものが何もなかったんです。そういうことを考えていたら、カナダに行って、震災が起きたところから離れていって、これでよかったのかなと。僕は結局、何ができたのかと思ってしまいます」
競技後に行われた記者会見では、外国メディアから震災に関する質問が相次いだ。すでに約3年がたっていたものの、心の傷は癒えていなかったのだろう。時に伏し目がちに語る姿からは、当時のショックの大きさをうかがい知れた。ただ、故郷について話すときは、羽生の表情も幾分和らいだように見えた。
「カナダに行ってよかったとは思っています。でもその決断は非常に難しいものでしたし、仙台に残っていたいという思いはすごくありました。今回の五輪はカナダでやってきた集大成ですが、仙台にいた期間もそれと同じくらい大事ですし、仙台への思いも忘れないようにしないといけないと思っています」