羽生結弦に経験を伝えた名コーチ・都築章一郎 3度目の五輪に挑む教え子に望むこととは?

沢田聡子
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都築章一郎コーチは、日本におけるフィギュアスケートの黎明期を知る名伯楽。その指導が実ったのが羽生結弦だ 【スポーツナビ】

 都築章一郎コーチは、日本におけるフィギュアスケートの黎明期を知る名伯楽だ。そしてその豊富な経験を生かした指導が実った結果が、羽生結弦の五輪連覇だった。3回目の五輪に挑もうとしている羽生を都築コーチは今どのように見つめているのか、話をうかがった。(取材日 2021年12月17日)

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第一印象は「フィギュアに必要な条件を備えた子」

羽生に初めて会った時の第一印象は「フィギュアスケートに必要な条件を備えた子ども」だったという 【写真:坂本清】

 羽生とは、彼が小学校2年生の時、仙台で出会いました。初めは羽生のお姉さんがスケート教室にいらっしゃって、後から結弦が教室に入り、スケートを始めています。お預かりしてから4年ぐらいして仙台のリンクがなくなり、私が拠点を横浜に移してからも羽生はレッスンを受けに来てくれており、高校の終わり頃まで私と共に練習していました。

 第一印象としては、羽生はフィギュアスケートに必要な条件を備えた子どもでした。まず非常に体幹がスマートで、性格的にもしっかりしていました。まだ小さかったですから集中力は長く続かないのですが、集中した時には想像以上のものを消化できる子どもだったような気がします。ご両親が、物事に対して真剣に取り組んでいくという教育をしていらっしゃいました。また、とにかく負けず嫌いでしたね。大きいお兄さんだろうがなんだろうが、結果的には負けるくせに向かっていく、そんな子どもでした。

 私は「将来はオリンピック選手になろうね」と大きなアドバルーンを上げ、それに対して本人、またご両親も非常に協力的で、オリンピックに挑戦する心構えが小学校2年生の時から芽生えていました。羽生がフィギュアスケートを好きで、貪欲さを持ちあわせていたということも、彼が成長する大きな要因になったのではないかと思います。今皆さんに喜ばれる羽生結弦になるために、周りも努力されたと思いますが、羽生自身が真剣に取り組む人間であったような気がいたします。
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著者プロフィール

1972年埼玉県生まれ。早稲田大学第一文学部卒業後、出版社に勤めながら、97年にライターとして活動を始める。2004年からフリー。主に採点競技(アーティスティックスイミング等)やアイスホッケーを取材して雑誌やウェブに寄稿、現在に至る。

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