JBAの重責を担う背景と狙い “経営のプロ”大河正明の声<前編>

大島和人

古くから川淵会長(右)と親交が深い大河(左)。写真は97年当時の出向先であるJリーグから銀行へ戻る際のもので、自宅に飾っているという 【写真提供:Jリーグ】

 新生日本バスケットボール協会(JBA)で、実務のトップを担うのが大河正明だ。短期間のJリーグ出向経験こそあるが、実は5年前まで銀行員としてスポーツ界とはほぼ無縁の生活を送っていた人物である。Jリーグに移ってからはクラブライセンス制度の導入などに尽力し、今回は川淵三郎JBA新会長に請われて新たな重責を担うことになった。

 JBAにおける大河の役職は専務理事兼事務総長。協会のガバナンスを担う理事会のメンバーであり、なおかつ実務のトップという立場だ。タスクフォースが打ち立てた方向性を、現実に落とし込む重責でもある。新リーグにおいても役職は未定だが、1部・2部の振り分け、参入審査や経営指導などで大河の専門性は生かされる見込みだ。

 中高とバスケ部に所属し、洛星中時代は全国ベスト4にも輝いた経験もある大河だが、自らのプレー経験を語る機会はほぼなかったという。周りの人間にも当然、大河のバスケ歴は知られていなかった。大河がバスケ出身という情報が川淵会長の耳に入ったのも、今年1月のことだという。
 
 インタビュー前編では大河の“人となり”を中心に、銀行員時代から今に至るキャリアや、今の取り組みについて語っていただいた。

「(すでに)新リーグの理事なんです」

こちらも大河が披露してくれた写真。Jリーグから銀行へ戻る際に川淵会長(当時チェアマン)にもらったものであり、以来ずっと自宅に飾っている 【写真提供:Jリーグ】

――まず、Jリーグの常務理事からJBA、新リーグに転身することを決めた理由を教えてください。

 もともと僕はバスケットボールをやっていて、ただやっていたということはあまり誰にも話していなかったんです。内緒でもないのですが(笑) 。

 川淵さんが去年からバスケットの話でメディアに登場されていて、今年からタスクフォースに関わっておられました。

 僕は1995年から97年に、Jリーグへ出向していました。僕が(Jリーグから)銀行に戻るときの写真があるんですけれど、「斃(たお)れてのち已(や)む」は当時の川淵さんがJリーグのチェアマンとしてよく書いていた言葉ですね。この2つの写真を自分の家の中に、何気なくずっと飾ってあったわけ。その川淵さんが、バスケットボールの改革の件でいろいろとご苦労をされているというのは分かっていました。そんなときに話があり、困っておられるということで、何かのご縁だなと思いました。簡潔に言うとそんな流れです。

――JBA専務理事への正式な就任日は?

 5月13日です。

――理事会は非常勤の方も多くて、会社で言う“取締役会”に相当すると聞いていますが、大河さんが今回就任される専務理事兼事務総長はどういう立場でしょうか?

 会長、副会長、専務理事はそういう意味で言うと取締役です。私の場合は“専務取締役”みたいな。兼事務総長というのは、実務をやる立場です。組織の中で言うと、事務総長がある意味でトップということなので、僕だけが執行役員を兼ねている取締役と思ってもらえばいいと思います。(仕事の内容は)事業計画だとか、予算計画もそうですし、それぞれの事務局で起きることの決済をしていくというところです。

――新リーグへの関わり方はどうなる見込みなのでしょうか?

 正確に言うと、(すでに)新リーグ(一般社団法人ジャパンプロフェッショナルバスケットボールリーグ)の理事なんですね。理事長が川淵さんで、理事が僕と境田(正樹)さんです。7月の終わりをめどにチームを1部・2部に分けます。そのチームが社員になる社団が8月以降にできるんです。そのときにチェアマン、専務と言った感じで(理事会の)メンバーが構成されます。

――川淵さんは、大河さんがバスケットをされていたというのはご存じだったのですか?

 昔(Jリーグに在籍していた当時)は特に言っていなかったこともあり、ご存じなかったと思います。

 タスクフォースができてから、クラブの経営状況だとか、例えば規約だとか規定だとか、決めなければならないところがありました。それを全面的に手伝ってほしいという話を、1月くらいに受けました。その時に「僕はバスケットボールをやっていましたよ」ということを言った。それが(川淵会長に)インプットされていて、おそらく今日に至る大きな契機にはなったのだと思います。

 3月26日だったと思うのですが、中間報告として「結構大変ですね」という話を(川淵会長に)しに行ったところ、「Jリーグの常務理事もやっているけれど、兼務でバスケットボールの方も何とかできないのかな」と話があり、「さすがに兼務で両方やるのは、身体が3つくらいないと難しいな」と思っていたら、3月30日に「その後もいろいろと悩んでいて、人がいないんだ」ということを聞いて……。川淵さんも「このままいくと血圧が上がって大変だ」とのことだったので、どこまでできるか分からないけれど、力になれるのであればということで、お引き受けすることに決めました。

「昭和48年は人生で一番楽しい年」

――大河さんがバスケットボールを始めた時期、きっかけは?

 中学校に入ったとき、学校の1年上の先輩から「バスケット部に入れよ」と言われて、背も高かったので入部しました。僕らの頃はスポーツと言ったらほぼ野球しかない時代です。だけどまあ、誘われたのでやってみようかなと、気軽な気持ちで入りました。。

――洛星中時代は全国大会でベスト4に輝いたとのことですが。

 他の中学校は、普通は夏休みくらいまで、1年生はコートの横で声を出して応援したり、モップを掛けたりといった仕事が主でした。洛星の場合は(中学校に)入ったその日からボールを持ってプレーができたんです。部員も1学年10人に絞って、同じ背番号の後輩の面倒を見る、今で言うメンター制度のようなやり方をとっていました。当時は珍しかったと思います。

 監督は国語の先生で、バスケット経験はないものの、真面目な先生だったからいろんなバスケットの本を読んで研究されていました。たまたま僕らより3〜4歳年上の世代に運動神経の良い先輩がいて、京都府の大会で2位になったのかな。それから注目されるようになって、先生もさらに一生懸命勉強したり、他の中学の先生に教えてもらったりして指導力を上げたらしいです。

 五十何年生きていますけれど、私にとって(全国ベスト4に輝いた)昭和48年は人生で一番楽しい年でしたね。東京にも出てきて、代々木第二体育館でプレーができたし、クーラーが効いている中で試合をするなんて夢心地でした。全国大会に行くまでに市の大会、府の大会、近畿大会と予選も勝ち抜いて……。あのときが一番楽しかったな。

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著者プロフィール

1976年に神奈川県で出生し、育ちは埼玉。現在は東京都北区に在住する。早稲田大在学中にテレビ局のリサーチャーとしてスポーツ報道の現場に足を踏み入れ、世界中のスポーツと接する機会を得た。卒業後は損害保険会社、調査会社などの勤務を経て、2010年からライター活動を開始。取材対象はバスケットボールやサッカー、野球、ラグビー、ハンドボールと幅広い。2021年1月『B.LEAGUE誕生 日本スポーツビジネス秘史』を上梓。

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