栗山巧 独占手記「生涯つらぬく志」

1995年1月17日、神戸の小5・栗山巧が感じたこと 30年の節目に思う「野球しかできない。でも社会のために」

栗山巧

復興の支えとなるのは“子どもの笑顔”

1995年、「がんばろうKOBE」を合言葉にオリックスがリーグ優勝を果たし、地元・神戸の被災者を勇気づけた 【写真は共同】

「がんばろうKOBE」のシンボルだったイチローさんはもちろんですけど、当時の野球仲間とは平井正史さんの活躍で盛り上がっていました。高卒2年目なのにクローザーに抜てきされて、新人王はもちろん、最優秀救援投手と最高勝率のタイトルもとられた。僕たち小学5年生の間でも「ヒライ見た? 昨日もすごかったね」といつも話題になっていました。

 家が近かったので、子どもたちだけでグリーンスタジアム神戸に観戦に行くこともありました。そういう子は多かった気がします。大人はみんな、震災からの復興のためにいつも忙しかったから、子どもをオリックスに預かってもらえるのは助かったんじゃないかと。

 そうじゃなかったとしても、やっぱり子どもが元気でいるというのは、社会にとってとても大事なことなんじゃないかというのは強く思います。プロ野球選手になってから、東日本大震災などの大規模災害に直面した皆さんとお話をする機会を持つことがありますが、つらい時に支えになるのは子どもの笑顔、笑い声だというのはよく伺うお話です。

 僕は子どもとして、オリックスの活躍を喜んだり、笑ったりした側なので、オリックスが復興の力になっていたのはよくわかります。もちろん、子どもだけではなかったとも思う。オリックスを応援しているときだけは、大変な現実と距離を置いて、リフレッシュができていた。家族や周りの大人のことを思い出しても、そんな気がします。

 プロ野球選手には、野球しかできない。でも、野球を一生懸命やることで、社会のために役立つことはできる。ライオンズに入団してからの23年間、僕はずっとそう思って野球に取り組んできました。そう考えるきっかけのひとつは、やはりあの震災と、オリックスの活躍を目の当たりにしたことだと思います。

 もちろん、皆さんが大変なのは、大規模な災害が起きた時だけではない。人それぞれに苦しいこと、悲しいことも抱えながら生きているんじゃないかと思っています。そうした皆さんが、少しでも大変なことを忘れたり、和んだり、喜んでくれたりするように。何かが起きた時だけではなく、毎日の試合が見に来てくれた皆さんにとって特別な思い出になるように、僕らはいつも全力でプレーしなければならない。僕はそう思っています。

(構成:塩畑大輔、企画:スリーライト)

2/2ページ

著者プロフィール

1983年9月3日生まれ。兵庫県出身。背番号1。外野手。右投左打。177cm/85kg。プロ24年目。育英高から2001年ドラフト4巡目で西武に入団。2008年に自身初の規定打席に到達し最多安打(167安打)を獲得するなどチームの日本一に貢献。08年から9年連続でシーズン100安打以上を達成、12年から16年まではキャプテンを務めるなどチームの顔として活躍。稀代のヒットメーカーとして安打を積み重ね、21年に生え抜き選手では球団史上初となる通算2000安打を達成した。これまで獲得した主なタイトルは最多安打(08年)、ベストナイン(08、10、11、20年)、ゴールデン・グラブ賞(10年)。

新着記事

編集部ピックアップ

コラムランキング

おすすめ記事(Doスポーツ)

記事一覧

新着公式情報

公式情報一覧

日本オリンピック委員会公式サイト

JOC公式アカウント