1995年1月17日、神戸の小5・栗山巧が感じたこと 30年の節目に思う「野球しかできない。でも社会のために」
小学5年生のころ、阪神・淡路大震災を経験。当時の記憶をたどり、幼いころの心情を吐露する 【撮影:スリーライト】
約1カ月にわたり、全5回の独占手記「生涯つらぬく志」を連載。第3回は「阪神・淡路大震災の記憶」。震災から30年、栗山巧が少年時代の経験を未来へ語り継ぐ。
「まさかこんなことが起きるなんて…」
阪神・淡路大震災の時、僕は小学5年生でした。そこまで語れるようなことはないですよ。確かに神戸市に住んでいたんですが、市街地から山側に少し離れた場所だったので、そこまでたいした被害ではなかったと記憶しています。
とんでもない揺れではありました。明け方だったので家にいましたが、食器棚やタンスがバタバタ倒れて、足の踏み場もない。余震が来るたびにビクッとしながら、とにかく動けるように倒れたものをかき分けて、整理整頓をして……停電だったのかなと思うんですが、とにかくテレビがつかなかったので、まったく状況がわからなかった。おそらく、東京に住んでいた皆さんのほうが、早々に震災の全容を把握することができていたんでしょうね。
どうやって情報を得ていたのかもわからないのですが、とにかく小学校の授業はしばらくありませんということになって。自宅は水道も止まってしまっていたんですが、近くの公園で水が出るというのを近所の人から聞いて、うちも水を汲みに行きました。
通っていた小学校は、数日のうちに人でいっぱいになりました。市街地のほうからもたくさんの方が避難をしてきた。覚えているのは、地元の人でも校庭に車を停めて寝泊まりされている方が多かったことです。倒壊した建物からかろうじて脱出したトラウマゆえ、という事情を知ったのは、ずっと後のことでした。
あまりにもすべてのものが変わってしまったというショックはありました。
祖母をはじめ、親戚が何人か市街地のほうに住んでいたこともあって、両親はずっとバタバタしていた。状況がよくわかっていなかったので、「僕もおばあちゃんちに行く!」と言ったんですが、連れて行ってはもらえなかった。それだけ危険だし、ショッキングな光景を見せたくないというのもあったと思うんですが、いずれにしてもただ事ではないんだなとあらためて感じました。
代わりに公園に水を汲みに行ったりしましたが、重いバケツを運びながら、何かで見た戦場の子どもの写真が思い浮かんだりしました。自分が住んでいる日本で、まさかこんなことが起きるなんて……と。元通りというのは、ちょっと難しいんかもな、と子ども心にも思いました。
避難を受け入れることができるくらい、被害は少なくはあったので、やがて学校も始まり、日常も少しずつ戻ってきました。ニュースは毎日、震災の過酷な現実を伝えていましたが、けっして暗い話題だけではありませんでした。オリックスがめちゃめちゃ強かったんですよ。