横浜FMの守護神ポープ・ウィリアム、不屈の源流 ACL決勝第2戦へ決意「次は必ず僕が勝たせたい」
横浜FMのGKポープ・ウィリアムがACL決勝第2戦を前にこれまでの道のり、ACLへの決意を語った 【DAZN】
女子中学生や小学生に交じって練習を積む日々もあった。
それでも、決して投げ出すことはなかった。
なぜなら、「母の姿を見ていたから」(ポープ)
紆余曲折を経て、たどり着いたAFCチャンピオンズリーグ(ACL)決勝の舞台。
横浜F・マリノスの守護神に、自身の“源流”と大一番への覚悟を聞いた。
(聞き手:大林洋平、取材日:5月13日)
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多くのものを得た川崎Fでの2年間
本当にホッとしています。やっぱり勝つのと負けるのとではメンタルに大きな違いがあるので、勝って第2戦を迎えられるのは、チームにとっても僕にとってもポジティブな要素だと感じています。
――今シーズン、横浜FMに加入されましたが、どのような思いで移籍を決断されたのでしょうか。
もともとF・マリノスのアタッキングフットボールに魅力を感じていました。選手として、より成長したいという気持ちは常に持っていて、F・マリノスでサッカーをすることが最も成長につながると思ったので、オファーをもらってすぐに決断できました。
自分の中で、横浜F・マリノスはただの一クラブではありません。小さいころからビッグクラブという認識がある中、そのクラブで実際にプレーをするまで(横浜FMに加入した)実感が湧かなかったというのが正直なところです。(シーズン初戦から約3カ月が経ち)いまはあらためて大きなクラブだと感じていますね。
――ポープ選手はいつごろから本格的にGKに取り組み始めたのでしょうか。
幼稚園からサッカーを始めて、ずっとフィールドプレーヤーだった中、足を骨折した小学4年の夏休みにアイスを食べ過ぎて太ってしまい、動けなくなってしまったんです。地元の八王子の冬は寒く、フットサル大会が開催されるのですが、その大会でGKをやってみたら決勝に進出しました。レッズの中島翔哉選手がいたチームに負けて優勝はできなかったのですが、すごく活躍して、その大会をきっかけにGKをやるようになりました。
――東京ヴェルディのジュニアユースに加入したきっかけは奇跡的な縁だったそうですね。
小学5年の冬、祖母が住む仙台の家に帰省した際、ベガルタ(仙台)のトップチームの練習を見学していると、練習途中に当時、GKコーチだった(故・)藤川孝幸さんに話しかけられ、練習後にグラウンドにくるように言われました。そこで少しトレーニングをした後、ベガルタのスクールに入るように誘われたのですが、「自宅が東京」という話をしたらつないでいただけることになって、その方が菊池新吉さん(現・サンフレッチェ広島GKコーチ)でした。
それまでJリーグクラブに関わったことがまったくなかったので本当にびっくりして、運命的な話ってあるんだなと……。(2018年に)藤川さんは亡くなられましたが、僕のGKの道筋を最初に作ってくださり、感謝しています。その後もいろいろな方が携わってくれて、いまの僕がある。不思議な縁を感じます。
――17年にFC岐阜から川崎フロンターレに期限付き移籍(所属元クラブは東京V)した際のGKコーチが菊池さんでした。
当時、自分がフロンターレにふさわしい選手だったかと言われれば、そうではありませんでした。でも、トップレベルの環境に身を置き、自分に足りない部分、サッカーへの姿勢を知ることができたのはすごく大きかったです。そこに追いつきたくて努力しましたし、先輩たちにもよくしていただき、いろいろな景色を見させてもらいました。
常日頃から先輩が後輩たちをご飯に連れていってくれる姿がすごく格好よく見えましたね。先輩たちの“ピッチで戦い、そこで稼いだお金を僕たちに還元してくれる”サイクルが格好よくて、自分も先輩たちのようになりたいという憧れの気持ちを強く抱いたのを覚えています。フロンターレを出てからも追いつき、追い越したいと覚悟を決めたことで、いろいろなものが変わっていきました。フロンターレでの2年間はサッカー選手としては足りないところだらけでしたが、気づかされたものがすごく多い時間でした。
母から得た貫く力
大分時代の21年、J1デビューを飾ったポープ・ウィリアム(右) 【写真は共同】
母が僕に見せ続けてくれた姿から大きな影響を受けました。いつサッカーを辞めてもおかしくないような苦しい時期もありましたが、そこで投げ出さなかったのは母の姿を見ていたからだと思います。
――影響を受けたお母様の姿とは、具体的にどのようなものなのでしょうか。
母は働きながら2人の育児をしてくれていました。育児に対するストレスもあったでしょうし、生活していく上でも決して恵まれた家庭ではなかったので、金銭的な不安もありました。いろいろなものを抱えながらも仕事と子育てを両立してくれていました。僕は非行に走ったわけではありませんが、決して優等生ではなく、たびたび問題も起こしていました。さまざまな事情を同時に抱えていたので、精神的な余裕もなく、難しかったと思います。
そんな中でも、母は大事に育ててくれましたし、母がたくましかった分、僕自身も甘えていたところがありました。いま思えば、本当にしんどかったと思います。母の投げ出さない強さは自分にも通ずるものがあります。母の姿を見ていたからこそ、僕もサッカーを捨てなかった。幼心にも貫く力、耐えるパワーみたいなものを感じ、 勝手に養われていたのかなと思います。
――ポープ選手自身、プロキャリアをスタートした東京V時代、女子中学生や小学生に交じって練習するなど、苦しい時間を過ごしたそうですね。
いま同じ立場でもう一度耐えられるかと言われれば、正直分かりませんし、逆になぜ耐えられたのかも分かりません。ほかのチームが練習試合をしにきたとき、女子中学生や小学生と練習している姿をプロの選手や指導者に、見られるので、本当に恥ずかしいやら、情けないやら、複雑な感情が入り交じる日々でした。
その時期はしんど過ぎて記憶が曖昧で、覚えていないのが正直なところです。いまは自分の中に揺るぎない軸ができていますが、当時はそこまでプライドがなかったのがよかったのかもしれません。絶対的なものがなかったからこそ、逆に耐えられたのだと思います。
――13年にプロ入りし、川崎F時代など苦しい時期を経て、大分トリニータに在籍したプロ9年目の21年にJ1デビューされました。その直前、お母様とのLINEでのやり取りを『note』で公開されて話題となりました。あらためてお母様のメッセージはどのように心に響いたのでしょうか。
グッとくるものがありました。J1にたどり着くまですごく時間がかかりましたし、思ったように進んだキャリアではなかった中、母が僕の苦しんでいる姿を一番近くで見てくれていました。だからこそ試合に出ることが決まり、連絡したときは感情的になりましたね。僕の中で、基準は常にJ1だったので、ようやくそのスタートラインに立てたことが感慨深かったです。メッセージの中にはリアルがあったと思います。あそこまで反響があるとは思っていなかったですが、“リアルな僕”を伝える上ではよかったのかもしれません。
――そのリアルとは、お母様のメッセージ中にもあった通り、お父様が残された借金を完済する時期が重なったことを指されているのだと思います。そこに何か感じたところがあったのではないでしょうか。
僕の人生にはけっこう、そのようなめぐり合わせがつきものです。最初の新吉さんとの出会いなど、節目、節目で運命的な出来事が起きました。いまACL決勝の舞台に立てていることもそうですが、いろいろなものが絡み合いながら、偶然ではなく、必然的に(そのような機会が)めぐってきているのかなと感じています。
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