中学時代にグローブを吹っ飛ばした仰天エピソードの剛腕ボクサー “ハマのタイソン”田中空がプロデビュー
ボクシング一族という背景
元日本ランカーでトレーナーの父・強士さん(左)と世界を目指す(2024年3月13日) 【写真:船橋真二郎】
息子・空の幼い記憶は鮮明ではない。ただ、祖父の田中日出夫さんが経営する会社に小さなボクシングジムが併設されており、その練習風景を見ながら「やってみたいな」と思ったことは覚えているという。
強士さんは、のちに日本王者となる鈴木誠(野口)=2度、トラッシュ中沼(国際)、横山啓介(国分寺サイトー=当時)とも戦った京浜ジム所属の元日本ランカー。最高で日本ミニマム級2位まで上がったものの、自然気胸を患ってブランクをつくり、タイトル挑戦は果たせなかった。
「自分がいつやめたのか、あまり記憶がない」と強士さんは苦笑するが、療養期間を経て約4年ぶりに復帰後のラストファイトが2005年1月だから、空がボクシングの練習を始めたばかりの時期と重なる。息子が見たのは復帰に向けてトレーニングに励む、父の姿だったのではないか。
あるいは幼いながらも“血”が騒いだのかもしれない。祖父の日出夫さんも元プロボクサーで、大おじにあたる田中昇は2度の防衛に成功したサウスポーの元日本フェザー級王者。いずれも東京ドームの前身・後楽園球場で、1949年10月にベビー・ゴステロ、1951年10月には後藤秀夫、戦後期に活躍した著名な日本王者たちに挑戦したこともあった。いずれにしても、幼い頃から強士さんの英才教育は始まった。
「自分が仕事を終えて家に帰ったら、もう寝ていることが多かったんですけど、起こして、泣きベソかいてる空をジムに連れて行ったり……。かわいそうかなって、何度も思ったんですけど、約束したので。でも、それをやり続けることでメンタルが相当、鍛えられて、強くなりましたし、続けてきてよかったなと思います」
タイソンのボクシングが教科書
関東大学リーグ戦で勝利の雄叫びをあげる東洋大学時代の田中空 【写真:ボクシング・ビート】
開始ゴングと同時に躍りかかるように攻める田中のファイトはとにかく強烈だった。プロ主導のU-15ボクシング全国大会は5度優勝。アマチュア主催のアンダージュニアの全国大会は通算7度優勝。その記録が残る決勝戦の大半を1ラウンドで終わらせている。
幼い段階から練習の輪を広げたことも大きかった。大会などで知り合った子どもたちを誘い、「田中ジム」で定期的に合同練習を行った。実戦練習の機会が増えて、「みんな、そこから一気に強くなった」と、練習仲間のひとりで当時は大橋ジムに通っていた現・日本スーパーライト級2位で、のちに武相高校、東洋大学の3つ上の先輩になる渡来美響(三迫)が話していたことがあった。
大橋ジムには幼稚園の頃から出稽古に来ていたという。覚えているのは田中が中学生の頃だ。キックボクサーからプロボクサーに転じ、東日本新人王の決勝にも進んだ大人のライト級相手に体力負けすることなく“バチバチ”のスパーリングをし、むしろ田中が押し込む展開だった。
高校時代は2度の選抜優勝、インターハイ3位に加え、1年の夏にはアジア・ジュニア選手権66kg級で優勝し、MVPも受賞、2年の春にはアジア・ユース選手権ライトウェルター級3位、同夏には世界ユース選手権出場と国際舞台も数多く踏んだ。
いきなりコロナ禍に巻き込まれた大学時代は貴重な試合の機会を奪われたものの、再開された関東大学リーグ戦では3年、4年ともに全勝でチームの2連覇に貢献。ウェルター級の階級賞に2年連続で選ばれ、4年時の全日本選手権では初優勝も飾った。