ジャッキーロビンソンの息子がアフリカ大陸に渡った理由とは? 搾取ではなく対等なフェアトレードで目指す経済的自立

加藤潤

ドジャースのロバーツ監督(右)と手を合わせるデービッド氏(左)、母・レイチェル氏(中央) 【Photo by Rob Leiter/MLB Photos via Getty Images】

 MLB初の黒人選手であるジャッキー・ロビンソン。その次男であるデービッド・ロビンソン氏は現在、タンザニアでコーヒー農園を営んでいる。ジャッキーの息子という肩書ではなく、アフリカの地で父の教えを実践している彼自身に興味を持った中日ドラゴンズの加藤潤通訳がデービッド氏にインタビューした内容を全3回に分けてお届けする。(第2回)

パスポートは自らの褐色の肌

 1967年、デービッド氏は15歳のときに両親に連れられてヨーロッパを周った。父・ジャッキーが仕事の都合でアメリカに帰国したあとには、母・レイチェルと二人でアフリカを3週間かけて旅したという。

「父からはっきりと言葉にして聞いたことはないけれど、あれは教育の一環だったんだろうね。我々のルーツに触れなさいという」

 ジャッキーが人種の壁に挑んだ1940年代から20年が経ち、デービッド氏の育った1960年代に入ると、世界では経済のグローバル化が加速した。同時にアメリカ国内ではマイノリティの社会進出が進んだ。

「60年代には黒人でも大学に進学し、企業の重職に就く者が現れ、弁護士や大学教授になる者がでてきた。アメリカ社会を代表する黒人が出始めたということだね。でも社会的地位を築いたアフリカンアメリカンのほとんどがアフリカについて何も知らない。我々のルーツにもかかわらずだ。そして私はすでにアフリカを訪れている。この大陸は天然資源が豊富で、近い将来、世界経済により大きく関わっていくことがわかっていた。私がアフリカに移り住んだ理由のひとつだ。私自身が人生のサバイバルをする上で、ポジションを確立したということだね」

 1960年代とは、アフリカ大陸にとってもまた変化の時代だ。17の国が植民地支配からの独立を果たし「アフリカの年」と言われた1960年を皮切りに、各国が植民地支配の呪縛から放たれた。この世界の潮流は、アフリカ大陸の住人と他の地域に住むアフリカを起源とする人たちが連帯して問題にとりくむ「パンアフリカニズム」の高まりと呼応していたと言われる。

「じつはいま我々がいるダルエスサラームでは、1974年に第6回パンアフリカン会議が開かれたんだよ。アフリカ大陸内だけでなく、世界各地のアフリカ系の人間が一同に介して、この大陸が抱える諸問題について話し合ったんだ。
 タンザニアの建国は1964年だ。大陸側のタンガニーカが61年に、インド洋に浮かぶザンジバルが63年に独立した。翌年に合併してタンザニアが誕生して以降、数百人のアフリカンアメリカンがやって来て、政府の組織構築を手助けしたり、いくつもの重要なプロジェクトを担ったりしたんだ。
 ただし物事を立ち上げ、それを維持するには大変な労力と、なによりも持続的な強い意思が必要だ。80年代になると、意志を挫かれた多くの者たちがアメリカへと帰っていったんだ」

 デービッド氏がタンザニアに移住したのは、大きな理念を抱いた者たちの熱意がしだいに冷めていくさなかの1984年のことだった。

 インド洋に面したダルエスサラームから南西へ。東アフリカ大地溝帯に位置し、眼下にルクワ湖を望む高台に彼の農場はある。標高は1000メートルを越え、昼夜の寒暖差が大きくコーヒー豆の生育には理想的な立地だ。

「この場所に移り住むまでの過程は、それは大変なものだったよ。紹介に次ぐ紹介だ。この男はどのような人物か。この土地に来る目的は何か。以前住んでいた村で良い村民であったという証明があるか。農場のある地区の土地利用委員会にたどり着くまでに半年を要したよ。その間、ムベヤとダルエスサラームを何度も行ったり来たりしてね。苦労してようやく会えた委員会のメンバーからはこう言われたんだ。『我々は100エーカー以上の土地を欲している者を求めている。ただしその土地は我々の次世代の者たちのために有効活用されなければならない。決して外国人のためではないんだ』」

 デービッド氏が返した言葉は鬼気迫る。

「私は言ったんだ。『承知した。ただ、まずは私の言うことを聞いてくれ。私の祖先は奴隷としてアフリカから切り離された。その結果、私は国を失った。部族を失った。言語を失った。宗教を失った。そしていま私はこの地に帰って来た。私がこの村で生まれ育った住人だとは言わない。でもこれが私のパスポートなんだ』とね」

 そう言って自らの腕を指し、褐色の肌をなでた。

「『私はこの地に帰ってきたんだ。それに私の家族はこの大陸で生まれ育っている』そう告げた。そうしてようやくこう言ってくれたんだ。『この森を切り開き、作物を植えることができるのなら、あなたを迎え入れよう』」

 1989年に「Sweet Unity Farms」を設立。設立当時に婚約していたルース夫人と翌年に結婚し、7人の子供をもうけた。

「私たちは幸いにも事業を立ち上げ、軌道に乗せることができた。ただし私が経験した多大な苦労を考えると、おいそれと他人に"やってみな"と言うことはできないね」

1/2ページ

著者プロフィール

1974年生まれ。東京都出身。中日ドラゴンズ通訳。北海道日本ハムファイターズで通訳、広報、寮長に就いたのち、2011年から現職。シーズン中は本業をこなしながら、オフには海外渡航。85ヶ国を訪問。稀に文章を執筆。過去には中日新聞、中日スポーツ、朝日新聞デジタル版に寄稿。またコロンビアのTV局、テレメデジンとテレアンティオキアに話題を提供。現地に赴き取材を受ける

新着記事

編集部ピックアップ

コラムランキング

おすすめ記事(Doスポーツ)

記事一覧

新着公式情報

公式情報一覧

日本オリンピック委員会公式サイト

JOC公式アカウント