通訳がつないだ中日・ブライト健太と“42番”の縁 ジャッキーロビンソンの次男・デービッド氏が実践する父の教えとは?
中日・ブライト健太のユニフォームを着用するデービッド氏(左)とルース夫人(右) 【撮影:加藤潤】
ドラゴンズの42番のユニフォーム
「人生とは、他者の人生にインパクトを与えること以上に重要なことはない」
とあるコーヒー農園のホームページに添えられた一文である。
昨年2023年11月、ドミニカ共和国はサンフランシスコ・デ・マコリスのホテル内。この農園の創設者から「ぜひ会って話をしよう」とのメールを受け取った。ホテルのプールサイドでドミニカンコーヒーをすすりながら、心は小躍りしていた。
私の所属する中日ドラゴンズがドミニカ共和国に選手を派遣し、私も通訳として渡航した。滞在が1か月を越え、帰国を前にしてオフシーズンの予定を思い描くなか、3年前から温めていたひとつのプランを実行したいと思い立った。
デービッド・ロビンソン。タンザニアでコーヒー農園を営むアメリカ人は、MLB初の黒人選手であるジャッキー・ロビンソンの次男だ。ぜひとも彼に会って話を聞きたい。
デービッド氏はタンザニアに移住して40年になる。知人を通じてデービッド氏の存在を知った3年前から、彼のことを調べれば調べるほど、直接話を聞きたいとの思いが強まった。ジャッキーの息子という肩書にではなく、アフリカの地で冒頭の父の教えを実践しているデービッド氏自身に興味をそそられた。
「直接会って話そう」。そう返信をもらった時点で行き先は決まった。そうだ、ドミニカ共和国に負けず劣らず、タンザニアもコーヒーの名産地だ。心はすでにカリブからアフリカへと飛んでいた。
タンザニアの旧首都で最大都市、ダルエスサラーム。この街の一角に日本の援助で造られた「Koshien」球場がある。そのバックネット裏で、雨でぬかるんだグラウンドの泥にまみれながら懸命にボールを追う球児たちに、孫を見守るような眼差しをむける男性に声をかけた。
「シカモー、ムゼー」
「マラハバ」
スワヒリ語で目上の人に尊敬の念を表す決まり文句「シカモー、ムゼー」。答えの「マラハバ」が対をなす。
「お会いできて嬉しいです。あなたのお話を伺いに、20年ぶりにタンザニアへやってきました」
人生の酸いも甘いも噛み分けた貫禄のデービッド氏が、子供たちに向けていた優しい表情を私にも向けてくれた。
3年前にデービッド氏の存在を知ったときにまず浮かんだ思いは「20年前に彼と知りあう術はなかったのか」という後悔だった。青年海外協力隊員としてタンザニアに赴任していた当時、デービッド氏の営むコーヒー農園があるムベヤ地区を訪れたことがあったが、あとの祭りだ。
後悔とともに、ひとつの実現したいプランが浮かんだ。翌年ドラゴンズに入団してくるひとりのルーキーとデービッド氏の接点を持てないものか。そのルーキーとはブライト健太。NPBに所属するアフリカンハーフとして初めてジャッキー・ロビンソンの42番を選んだ選手だ。アフリカの血を汲む選手が日本で父の番号を背負うことを、デービッド氏は知る由もないだろう。ぜひブライトの存在を知ってもらいたい。デービッド氏は喜んでくれることだろう。またジャッキーの息子に自身の存在を知ってもらうことをブライトも喜ぶはずだ。
自己紹介を済ませたのち、デービッド氏にプレゼントを手渡した。ブライトから預かってきたドラゴンズの42番のユニフォームだ。「出来ることなら自分の手でお渡ししたかった」というブライトの想いを添えて手渡した。
思わぬサプライズに目を丸くして驚いたデービッド氏は、ブライトへの感謝と助言を私に託した。ジャッキーの息子からの助言は、ブライトにとって大きな返礼のプレゼントになったと思いたい。
「ブライトくんに感謝を伝えてほしい。ところで、君は私の話を聞きたいんだったね? 申し訳ないが、今日はもうおいとましようと思っている。明日以降もここへ野球を見にくるから、そのときに1時間ほど時間をつくるよ」
そう私に告げてデービッド氏は夫人とともに車に乗りこんだ。
「では後日、お時間をいただきます。アサンテサーナ(どうもありがとうございます)」
「カリブサーナ(どういたしまして)」