多摩川クラシコの明暗に見る、呪縛としての「自分たちのフットボール」
戦術は手段なのか美学なのか
FC東京の指揮官は威厳と風格をもって「自分たちのフットボール」を説くが…… 【(C)J.LEAGUE】
FC東京のクラモフスキー監督は64分に3枚替えを敢行。ゼロトップを解除してワントップのFWディエゴ・オリヴェイラらを投入する采配を見せた。ただ、この采配は遅きに失しただけでなく不徹底でもあり、ピッチ上の状況は改善されるどころか、むしろ混迷。結局、FC東京が後半に記録したシュートは「0本」。追い掛けるチームが記録するものとは思えない数字は、何も起こせなかった試合内容を端的に表すものだった。
この8分後、守備の破綻からFC東京GK波多野が退場し、ほぼ試合は決まってしまった。
サッカーは相手あってのスポーツであり、その「戦術」は「自分たち」だけで決定して相手に押し付けるようなものでもない。もちろん絶対的な戦力差があれば話は違うのだが、そこまで恵まれた戦力を持つチームは、少なくともJリーグには存在し得ないだろう。
FC東京の指揮官が強調する「自分たちのフットボール」のような現象は決して珍しいものでもなく、Jリーグでしばしば見られるものでもある。
別の試合でバッタリ遭遇した某Jクラブのスカウトも「理想のサッカーがあるのはいいとして、それを勝つために現実と擦り合わせてどういうサッカーをするのか選択していくのが監督の仕事なのに、まず『自分のやりたいこと』を優先させちゃう監督がJリーグには多すぎるよね」とボヤいていたので、多かれ少なかれいろいろな場所で見られる現象ではあるのだろう。
サッカーというゲームは勝利を目指してプレーするというのが大原則。「自分たちのフットボール」はその手段であるべきだろう。少なくとも、「敗れてでも貫くべき美学」ではないはずだ。