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クロップ勇退で思うことと思い当たること 与えすぎてエネルギーがなくなった闘将の決断

森昌利

リバプールの監督に就任して8年半。停滞期が続いていたイングランドきっての名門を蘇らせたクロップが、今シーズンをもって辞任することを決断した 【写真:ロイター/アフロ】

 1月26日、リバプールのユルゲン・クロップ監督が今季限りで退任することを発表した。このニュースは地元ファンだけでなく、世界中に大きな衝撃を与えた。南野拓実と遠藤航の取材を通じてドイツ人指揮官と直に接してきた筆者は、突然の辞意表明をどう受け止め、何を思ったか。

2024年1月26日は生涯忘れられない1日に

 いつでも今にも泣き出しそうな曇り空に覆われて、もしもフットボールがなければ生きる楽しみが何もなくなってしまうような英国の冬。ところがその日の午前中は雲ひとつない晴天で、筆者はその空と同様、晴々とした気分でマンチェスター大学に通う22歳の娘と一緒に愉快な時間を過ごしていた。

 その翌々日が長男の26回目の誕生日だった。そこでこうしたイベントが大好きな娘と一緒に近所のスーパーマーケットに出かけて、バースディーケーキを選んでいたのだ。

 しかしスーパーマーケットの通路で何気に携帯をのぞき込んだ娘の顔がみるみるうちに、いつもの英国の空のように曇った。そして「ダッド、クロップがリバプールの監督を辞めるってニュースが流れているよ」と唐突に言った。

 筆者は条件反射のようにその言葉を笑い飛ばした。そして「どうせくだらないゴシップだろ!? ありえない! それにしても酷いデマだな」と言った。

 けれども我が家で筆者の次にフットボールに詳しい彼女はこの言葉を聞いても引き下がらず、「でもクロップ本人が辞めるって話したみたい。リバプールの公式サイトが発表したって」と言って、申し訳なさそうではあったが、携帯の画面を筆者の目の前に差し出した。

 のちにリバプールの街頭インタビューの映像を見て、同じような体験をした人間が大勢いたことを知った。こうして2024年の1月26日は、リバプール・ファンにとってその日の午前中にどこで何をしていたのか、そしてどのようにユルゲン・クロップの勇退を知ってどれほど大きなショックを受けたのか。これから生涯にわたって語り続けるに違いない、そんな忘れられない1日となったのである。

 ユルゲン・クロップがいかにリバプール・サポーターにとって大きな存在なのか。それは2019-20シーズンにクラブ悲願のプレミアリーグ優勝を果たした時に、「これでクロップはこのイングランド北西部の街で神に近い存在になった」と語った有力OBジェイミー・キャラガーの言葉が最もしっくりとくる。

 神と同等の敬意を集めるなら、この8年半で1度の欧州チャンピオンズリーグ(CL)優勝、そしてこれもたった1度のリーグ優勝を成し遂げたくらいの成績では物足りないという人もいるだろう。
 
 ところがまさにこの街では生き神と言える存在なのだ。なぜか。それはクロップがリバプール・ファンに栄光以上の多大なる幸福をもたらしたからである。

この8年半、世界で一番幸せなフットボール・ファンだった

リバプールのファンにとってクロップは神にも等しい存在だ。この闘将の情熱、そしてアグレッシブ極まりないサッカーがアンフィールドを熱くたぎらせる 【写真:ロイター/アフロ】

 クロップは感情面でイングランド北西部の港湾都市と完全につながり、街をひとつにまとめた。あのほとばしる闘志。タッチライン上で喜怒哀楽を思う存分に表現し、大きく舞う大男のリアクションにファンが心底しびれた。しかもあの攻撃の権化ともいうべきカウンター・プレスのフットボールを持ち込んだ。奪われたその瞬間からボールを奪い返しにいくプレスの波状攻撃で、瞬時に守りの状況を攻撃に変える。そのアグレッシブ極まりないスタイルがスカウス(リバプール人)の激情と完璧に合致した。

 クロップのフットボールがリバプールの人間を興奮させて、ドイツ人の不撓(ふとう)不屈の精神とスカウスの天邪鬼とも言える頑なな反逆心が完全に結びつくと、ただでさえ熱いアンフィールドをさらに熱して、激しく燃やした。

 だから、クロップ自身とそのフットボール自体に強く熱い力がこもっていたからこそ、たとえ勝ち点1差で2度もマンチェスター・シティに優勝をさらわれても、レアル・マドリーに欧州CL決勝で2度も納得のいかない敗北を喫しても、サポーターは燃え続けた。

 いやそれどころか、こうした敗北が“君を一人では絶対に歩かせない”というアンセム『You’ll Never Walk Alone』の「勝つ時も負ける時も一緒」「何があっても我々の連帯は崩れない」というリバプール・ファンの精神性をさらに強固にして際立たせた。

 港湾都市のリバプールは、第2次世界大戦時にナチス・ドイツから軍事的拠点として標的にされ、激しい爆撃にさらされた。その歴史と頑固極まりない住民の性格が相まって、ドイツに対する反発が強い土地となった。ところが、アンフィールドに向かうタクシーの中で運転手は「そうした感情もユルゲンが変えた」と言った。

 叩かれても叩かれても、そこから雄々しく立ち上がってすぐさま反撃に転じるチーム。そしてそうしたリバプールの住民の心の琴線に訴えるフットボールを具現化したことで、クロップは地元に根付いたドイツ人に対する悪感情さえ拭い去っていた。無論、その忠誠心たるや鋼の強さである。

 だからこそ“ハマった”という印象なら、近代のイングランドで突出した名将たち、マンチェスター・ユナイテッドのアレックス・ファーガソン、アーセナルのアーセン・ヴェンゲル、チェルシーのジョゼ・モウリーニョ、そして現在マンチェスター・シティを率いるペップ・グアルディオラより、ユルゲン・クロップはリバプールにがっちりと完璧にハマり、愛され、ひと際強烈で大きな存在感を示した。

 思ったほどトロフィーは勝ち取ってはいないが、クロップの下で一丸となれたこの8年半、リバプール・サポーターは世界で一番幸せなフットボール・ファンだった。

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著者プロフィール

1962年3月24日福岡県生まれ。1993年に英国人女性と結婚して英国に移住し、1998年からサッカーの取材を開始。2001年、日本代表FW西澤明訓がボルトンに移籍したことを契機にプレミアリーグの取材を始め、2023-24で23シーズン目。サッカーの母国イングランドの「フットボール」の興奮と情熱を在住歴トータル28年の現地感覚で伝える。大のビートルズ・ファンで、1960・70年代の英国ロックにも詳しい。

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