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クロップ勇退で思うことと思い当たること 与えすぎてエネルギーがなくなった闘将の決断

森昌利

ポジティブ極まりないエネルギーの放射には限界が…

クロップのトレードマークと言えるのが飛びきりの笑顔。周囲をポジティブな空気で包み、そこにいる人々を引き込んで幸せな気分にさせる 【写真:ロイター/アフロ】

 茶目っ気に溢れた愉快な性格もそのカリスマ性に拍車をかけた。

 2019年12月13日は、筆者にとってそんなクロップの人間性に初めて直接触れて、忘れられない日となった。それはザルツブルクのスポーツディレクターが「リバプールと交渉している」とコメントしたことが英メディアで一斉に報じられ、南野拓実のリバプール移籍がにわかに現実的となり、ドイツ人指揮官に直接確かめようと息巻いて出かけた定例会見での出来事だった。

 最後に筆者に質問の機会が回ってきた。ところがいざクロップに語りかけようとした瞬間、監督付きの広報官が「現在進行中の移籍に関する質問は受け付けないのでそのつもりで」と発言して、完全に出鼻をくじかれてしまったのである。

 するとなんとクロップは愉快そうに「ははっ」と一声上げて笑うと、「君はなぜここにいるんだい?」と壇上から筆者をからかった。

 しかしこのクロップの対応で、筆者はリラックスした。そして「僕がここにいるわけはあなたが一番ご存知だと思いますが?」と返して、クロップの皮肉が効いたユーモアに付き合った。するとクロップは、「君とはこれから度々会うことになるんだろう」と言った。これではまるで南野の移籍を認めたのも同じではないか。

 からかいに負けずに応じた筆者に対し、この開けっぴろげの発言が返ってきたことで、本当に驚いた。だからこの後、勇気をもって「南野の移籍が日本で本当に大きな話題になっている。それは移籍先がリバプールということもあるが、何よりもあなたの存在が大きい。あなたと香川真司の間に起きたことは、今も日本のサッカー界の語り草となっている。そこで、質問ですが、当時の香川という日本人選手と一緒に働いた感想を聞かせてください」と続けることができた。

 この後のクロップのリアクションは、筆者にとって本当に生涯の思い出となった。ドイツ人闘将は愉快で仕方がないといった、あのトレードマークと言える弾けるような笑顔を見せると、「気が利いているじゃないか! 南野について聞けないとなったらシンジ・カガワについて聞いてきたぞ! こいつはいい!!」と言って、「I loved working with Shinji Kagawa, I loved it(香川真司と一緒にやるのが大好きだったよ)」と語り始め、素晴らしい談話をくれた。

 この時、クロップに完全に魅入られた筆者は、なぜ選手がこのドイツ人が実践するきつく厳しいフットボールに耐えることができるのか、理解したように思えた。

 90分間、組織的なプレスをかけ続けて、相手を体力的に凌駕するフットボール。クロップは自ら“ヘビーメタル・フットボール”と名付けたが、やる選手にとっては底なしのスタミナが要求される。

 しかしこんなふうに人間の心を一瞬にしてつかんでしまうボスに、愉快そうにプレスの威力を語られたら、選手も笑ってやるしかない。

 それにこの頃のクロップといえば、欧州CLを制覇したばかりで、リバプールに30年ぶりとなるプレミアリーグ優勝をもたらそうとしており、本当に輝くばかりの陽性のオーラに包まれ、出会う人間全てを魅了していた。

 けれどもそのポジティブ極まりないエネルギーの放射には限界があったのだ。

小さな微笑みだけで明らかに疲弊していた

クロップはリバプールを去る。だが彼がクラブ、街、そしてファンにもたらしたものは、この先もずっと色褪せることはないだろう 【Photo by Chris Brunskill/Fantasista/Getty Images】

 今回、クロップが勇退を明かした25分に6秒足りない動画を繰り返し見た。

 そこには、4年1カ月前に筆者をからかって楽しそうに笑ったドイツ人はいなかった。

「サポーターに重要なメッセージがあるということでここにいます」とインタビュアーに促され、カメラを直視したクロップの顔には明らかな苦悩と疲労が浮かんでいた。

 筆者がそんなクロップの消耗に初めて気づいたのは、昨年1月14日にアウェーで行われたブライトン戦の直後の会見だった。三笘薫の取材でこの試合を訪れた筆者は、通常ならミックスゾーンで日本代表MFの出待ちをするのだが、この日は会見室に赴いた。好調ブライトンとのアウェー戦とはいえ、0-3で完敗したリバプールが心配になっていた。いったい、クロップはどんな会見をするのだろうか? そんな興味が三笘の取材を後回しにさせたのだ。

 クロップが現れた。そして壇上の席につくと、最前列に座った筆者の顔を見つけて、一瞬「おっ!? 久しぶり!」という顔をすると、小さな笑顔を浮かべて黙礼してくれた。この半年前の夏、南野がモナコへ移籍して、筆者のリバプール通いが終わっていた。

 この会見でクロップが見せた笑顔は――もしかしたら筆者しか気がつかなかった――このごく小さな微笑みだけだった。質問に答える声は小さく、明らかに疲弊していた。勝って喜びのオーラを倍化する闘将にとって、敗戦のストレスが人より大きいこともあるだろう。しかしそれにしてもこの時のクロップが見せた明らかな疲労は、筆者を不安にさせた。

 またクロップはこのさらに2年前に母親を亡くしていた。当時は厳しいコロナ対策の渡航制限によりドイツ帰国が叶わず、葬儀に参列できなかったことが世界的ニュースとなった。非常に仲が良い母と息子だったという。こういうことは、のちにボディーブローのように効いてくるものだ。特にクロップのような人間性豊かな人物には本当にきつく、苦しい出来事だったに違いない。

「このクラブ、街、サポーター、スタッフ、みんなを本当に愛しているんだ。しかしエネルギーがなくなった。リバプールを率いるには私の全てを捧げなくてはならない。けれども今の私にはその力が残っていない」

 こう語ったクロップの心情には、個人的で多種多様の出来事、理由が複雑に積み重なっているはずだ。

 そして、取材という場面を通してではあるが、これまでに少なからず直接言葉を交わし、心を通わせた筆者には、常に自分の中の正直な思いを言葉にして伝えてきたクロップだからこそ、今回の決断に至ったのだと思えて仕方がない。

 正直に誠実に、本当に自分が信じること、思ったことを話してきたからこそ、心の中に空洞ができてしまったのだと思う。クロップはどんな時でも誠実に、正直に、自らの心の声を振り絞っていた。だからこそ、現在プレミアリーグの首位を走り、昨季の不振から完全にチームを立て直したにもかかわらず、辞意を表明したのだろう。

 過激なフットボールを顕在化するために、常軌を逸した楽観を体現して、自分を太陽のように輝かせた男は、得るものより与えるものがはるかに大きく、激しく消耗したのである。

 そのなかで、自分にとっての真実と向き合い続けるクロップが自分の心が発した“もう限界だ”という言葉を聞いてしまえば、それはもう辞めるしかない。

「完璧なフットボール? そんなものはこの世に存在しない。完璧な瞬間はあるだろう。しかし実際は、試合中に自分が犯したミスを取り戻そうとする時間のほうが長いものだ。まるでそれは本物の人生そのもののようだ」

 これはリバプールがプレミアリーグを制した2019-20シーズン、コロナのパンデミックでリーグが一時休止する前に、筆者が「今のチームはあなたが理想とする完璧なフットボールに近付いているのではないか?」と尋ねた時に返ってきた答えだ。

 そう、今回の勇退が正しい判断なのか、それとも大きなミスなのか、それは誰にも分からない。しかし、フットボールをこのように語るドイツ人の決断には彼の体躯(たいく)に比例するかのように、自分の感情に正直な大きな人間性が滲み出ている。

 自分を騙してまで、もしくは自分とは違う他の誰かを演じてまでリバプールの監督を続けるわけにはいかない。

 もしかしたらクロップ本人も、今回のやや個人的な感情を優先したかに見える決断を後悔する日が来るかもしれない。ただしそんなミスを犯すのも人間。それにそんな人としての不完全性もこの人の魅力につながる気がする。

 今はただ、リバプールに全てを捧げ、空っぽになってしまった56歳ドイツ人の勇退に敬意を捧げたい。その一方で、今後のリバプールの選手、クラブ経営者、ファンは、この不世出の監督の大きすぎる愛の損失を、自らのクラブ愛を少しずつ強め、さらに太く強固にして、補填するしかない。

 そして、さらなる団結と熱狂をアンフィールドに巻き起こし、クロップがもたらした連帯とヘビーメタルのノイズをこれからもただただ継続するだけである。

(企画・編集/YOJI-GEN)

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著者プロフィール

1962年3月24日福岡県生まれ。1993年に英国人女性と結婚して英国に移住し、1998年からサッカーの取材を開始。2001年、日本代表FW西澤明訓がボルトンに移籍したことを契機にプレミアリーグの取材を始め、2023-24で23シーズン目。サッカーの母国イングランドの「フットボール」の興奮と情熱を在住歴トータル28年の現地感覚で伝える。大のビートルズ・ファンで、1960・70年代の英国ロックにも詳しい。

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