【ウインターカップ特別企画】福岡第一“最強世代”の小川麻斗に聞く…Wキャプテン、河村勇輝、全国制覇

福岡第一高校3年時に夏冬連覇を果たした小川麻斗 【(C) 伊藤大允】

 2018年と2019年にウインターカップ連覇を果たした福岡第一高校(福岡県)。当時ダブルキャプテンの一角としてチームを全国制覇に導いた小川麻斗(千葉ジェッツ)は、2年冬から3季連続で日本一に輝いた。

 福岡第一入学から“最強世代”と呼ばれるまで、小川はどのような3年間を過ごしたのか。全国制覇へのターニングポイント、キャプテン就任の経緯、同級生として戦った河村勇輝(横浜ビー・コルセアーズ)、そして今年のウインターカップに出場する母校について語ってもらった。

「お前にはお前の才能があるから」1年から全国の舞台へ

――どのような経緯で福岡第一高校に進学することになったのでしょうか。

小川 井手口(孝)先生が福岡の大会とか、全中も含めて全部の大会を見に来てくれていました。7歳上のお兄ちゃんも福岡第一にいましたが、BチームだったりAチームだったり、そんなに試合に出られず。結構厳しい環境だったので、自分も第一に行くのはちょっときついかな、と思っていたんですけど、井手口先生が「お前にはお前の才能があるから」と誘ってくれました。“重冨ツインズ”でインターハイとウインターカップを連続優勝したりしていて、これから第一の強い時代が来るのかな、とも思いながら進学しました。

――厳しい環境に飛び込んで、1年生のインターハイからメンバー入り。この頃には「やっていける自信」のようなものがあったのでしょうか。

小川 やはり1年生の頃は高校生のレベルの高さに苦戦していたんですけど、2年生の頃から「だいぶやれるな」と感じました。

――先日、井手口先生が「1年生のときから小川と河村は抜けていた」と話されていました。当時から指揮官からの期待を感じるようなことはあったのでしょうか?

小川 練習から「スタートチームをやっつける気持ちでやれ!」と言われたり、試合でもスタートが悪かったときに自分たちを出して“流れを変える”じゃないですけど、上手くいったらそのまま出し続けてくれたり。そこは1年生のときから(河村)勇輝と自分に期待して使ってくれていたのかなと思います。

――1年時のインターハイから全国の舞台を経験されましたが、ウインターカップでは出番が減り、悔しい思いをしたと話していました。

小川 自分が覚えている限りだと、勇輝がスタートになって、スタートの3年生をセカンドに下ろした、みたいな感じでした。勇輝と自分を別々にして、自分が1番に移ったというのもあって出場機会が減りました。勇輝がU16日本代表に行って成長して帰ってきたというのもあって、井手口先生は(勇輝を)スタートに移したような感じでしたね。

初戦の大切さを痛感した2年…名物メニューも誕生

――主力として迎えた2度目のインターハイは、松崎裕樹選手(横浜BC)と河村選手が代表活動でチームから離れていたこともあって悔しい初戦敗退となりました。

小川 シードも取れていたんですが、やはり初戦の難しさといいますか…。1回戦から勝ち上がってきた実践学園高校(東京都)と対戦したんですけど、1試合しているのとしていないのは違うのかなと感じました。インターハイの雰囲気に飲み込まれたというか、あまり自分たちのバスケットができずに終わってしまいました。

――悔しい敗戦を経験し、その後チームが変わるような出来事はありましたか?

小川 特に大きく変わったわけではないですけど、インターハイが終わってから「33秒」という練習メニュー(福岡第一名物のランメニュー)が導入されるようになりました。また、代表から帰ってきた2人(松崎、河村)がチームを引っ張ってくれて、もう一度チームが団結したと思います。

――その後のウインターカップでは見事に優勝を果たしましたが、印象に残っているシーンはありますか?

小川 初戦から強豪の東山高校という、また難しい試合になる組み合わせでした。緩く試合に入るわけでもなく、自分たちのバスケで圧倒して勝ちたいなと、「全員揃ったら第一は強い」というのを見せようと、大会に臨んでいました。決勝(vs中部大学第一○85-42)まで大差をつけて勝ち続けられましたけど、初戦の東山戦(○75-60)で良いゲームをできたことが一つポイントだったと思います。

乗り気じゃなかった主将就任…先輩を手本に“嫌われ役”も

2年時はキャプテンを務めた松崎(左端)らとともに主力としてウインターカップを制した 【(C)加藤夏子】

――新チームでは河村選手とダブルキャプテンに就任しました。あらためて経緯を振り返っていただけますか。

小川 お互いにキャプテンをやらないという方向でずっと話していて、2人で「キャプテンは(クベマ ジョセフ)スティーブ(現:専修大学4年)でいいんじゃない?」とか、そういう話をしていました。井手口先生としては勇輝に任せたい感じだったんですが、どうしても嫌だと…。そしたら先生が「じゃあダブルキャプテンでどうだ?」みたいな話になりました。

――それまでキャプテンを務めたことは?

小川 ミニバスではキャプテンでした。中学ではゲームキャプテンをしていましたが、キャプテンらしいキャプテンはしていなかったですね。

――大所帯を率いるキャプテン像はどのように作り上げていったのでしょうか?

小川 1学年上でキャプテンだった松崎さんが、やることはちゃんとやるし、言うことは言う、という厳しい姿勢を見せてくださっていたので、そこは真似しました。キャプテンとして、ときにはチームメートに嫌われてもいい、と思いながらやっていました。

――キャプテンならではの苦労もあったのでは?

小川 まとめる難しさというのは感じました。やはり大人数をまとめるのは一人の力では無理だったんですけど、そんなときに勇輝だったり、他の3年生が手伝ってくれた。そういうことをしない3年生もいないわけではなかったですけど、最後には3年生がまとまって、それに1、2年生がついてくるというチームになれた。みんなの助けがあったからこそ、1年間やっていけたと思います。

――井手口先生は「チームで一番うまい河村と小川が黙々と個人練習をしていた。背中で引っ張る2人がいたから、チームを率いるコーチとしては楽だった」と振り返っていました。

小川 個人練習に関しては2年生からやっていたので、そこは3年生になっても変わらないことでした。それよりも、掃除などを率先してやっていましたね。どこのチームでも、3年生になると雑用を下級生にやらせたりすることがあると思いますが、そういった細かいことを先輩がやることで、後輩たちもついてきてくれると思っていました。そういうところは自分たちが率先してやっていこうとしていました。

「変わらないといけない」“最強世代”の転機となった黒星

――そんな新チームで臨んだインターハイ、福岡第一としては3年ぶりの優勝を果たしました。

小川 うれしいのはうれしかったのですが、初めてウインターカップを優勝したときほどの感情ではなかったですね。勝てるのが当たり前になってきた部分もあって、逆にウインターカップが怖いなと感じましたし、きつい練習があと半年あるのか、とも思っていました。(笑)

――追いかけられる“怖さ”もあるなか、チームはその後どのようにウインターカップへ歩んでいったのでしょうか?

小川 特に変わったことはなかったんですけど、11月に新潟で東山高校(京都府)と試合をして負けてしまって。そこでまた「チームが変わらないといけない」と危機感を感じて、選手たちでミーティングをしました。もう一度気を引き締めるじゃないですけど、そこからウインターカップまでは、密にコミュニケーションをとりながら、走り込んだりトレーニングをしました。

――そうして臨んだウインターカップ。見事な完全優勝を果たしました。

小川 ベスト8までは、そこまで焦ることもなかったんですけど、準決勝で東山と対戦することになって、妙な緊張感がありました。この年に負けたのは天皇杯の千葉ジェッツ戦と、秋の東山戦だけ。東山にはウインターカップ直前に負けていたこともあって、苦手意識のようなものがありました。実際、ウインターカップ準決勝も出だしはよくなくて、後半なんとか持ちこたえた試合展開でした。

――井手口先生も小川選手の世代ではウインターカップ準決勝の東山戦が印象に残っていると話していました。

小川 井手口先生にはハーフタイムかタイムアウトのときに「みんなで守るんだよ!」って、めちゃくちゃ怒られましたね。自分たちが引退した後は、みんなの笑いのネタになってましたけど。(笑)

――やはり立て直すときは「守備」から?

小川 東山戦の前半は結構簡単にやられていたので、ボールマンとの一対一で簡単にやられないというところですよね。相手がプレスにかかってくれたというのもあるんですけど、後半はみんな足が動いていたし、檄を飛ばされてからは走れていた印象があります。

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著者プロフィール

日本バスケを盛り上げよう! 2016年に生まれたプロバスケットボールリーグ、「Bリーグ」と時を同じくして立ち上がった、日本バスケの魅力を伝えるバスケットボール専門サイト。男女日本代表、NBA、高校バスケもアツくフォローしています。

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