“不撓不屈の男”渡邊雄太が雪辱を誓う 「強くなったバスケ日本代表」を見せる時が来た

テレビ朝日

パリ五輪の出場権獲得がかなわなかった場合は代表を引退しようと考えている渡邊の意気込みは強い 【写真:YUTAKA/アフロスポーツ】

バスケットボール一家で育ったNBAプレーヤー

「このチームでパリに行けなかった場合、僕はもう今回で代表活動を最後にしようと思っています」。並々ならぬ思いで「FIBAバスケットボールワールドカップ2023」に挑む選手がいる。日本が誇るNBAプレーヤー渡邊雄太(フェニックス・サンズ)だ。

 香川県出身の渡邊は尽誠学園高校、セント・トーマス・モア・スクールを経て、NCAA1部のジョージ・ワシントン大学へ進学。同大卒業後、メンフィス・グリズリーズと2ウェイ契約を結ぶと、2018年10月27日にNBAのコートに立ち、田臥勇太(宇都宮ブレックス)以来2人目となる日本人NBAプレーヤーとなった。その後はトロント・ラプターズ、ブルックリン・ネッツでもプレー。「100万人に1人」の狭き門と言われるNBAで5シーズンを過ごし、レギュラーシーズン通算179試合に出場した。

 そんな渡邊は、実業団チームで活躍した渡邊英幸氏、シャンソン化粧品でプレーした元日本代表・渡邊久美さんの下に生まれた。姉の渡邊夕貴さんは名門桜花学園高校出身の元Wリーガーと、まさにバスケットボール一家。渡邊も幼少期から「普通じゃない」バスケットボール漬けの毎日を送った。

「(早朝)親に叩き起こされると、真っ暗な運動場に行って、『これがドリブルにいいんだ』と。真っ暗な中でずっとドリブルをしていました。こういうものだと思ってやっていましたけど」

父親考案の“電柱トレーニング”で特訓

渡邊雄太の父・英幸氏(左)は、十分な環境が整っていなくても、できることを見つけて最大限努力することを息子に教え込んだ 【(C)テレビ朝日】

 父親は現役時代、仕事をこなしながらバスケットボールをプレー。当時の日本にはNBA選手どころか、プロ選手すらいなかったが、渡邊同様に不屈の精神でキャリアを全うした。

「中庭に行って、昼休みに練習するしかなかった。外だからボールが剥げて軽くなるので、水で濡らして(重くしたボールで)シュートを打っていました」

 渡邊がNBAを目指すことを宣言したのは小学3年生の時。「お父さん、NBA選手になる」との言葉を聞いた父親は「真剣だったら、いくらでも付き合ってあげるよ」と返答したが、「体育館を使えるのが週に2時間か3時間」と限られていた。そこで考えたのが“電柱トレーニング”だ。

「『もっと練習したい』と言うから、ここでやり出した」。小学校の校庭にある電信柱をバスケットゴールに見立て、ボールを投げる。父親はまっすぐに投げるというシュートの基本を徹底して伝えた。「(ゴールが)なくても、練習はできると思いました。リングがないのを理由にしたくなかった」。十分な環境が整っていなくても、できることを見つけて最大限努力する。不遇の選手時代を過ごした父親ならではの発想だった。渡邊はNBAチームと初めて契約を結んだ直後、幼少期について回顧していた。

「“諦めない”、“努力の大切さ”は小さい時からすごく学びました。生半可な努力ではそこに到達できない。僕自身も小さい時からすごく練習してきました。そういった意味では両親に感謝しています」

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