内海哲也『プライド 史上4人目、連続最多勝左腕のマウンド人生』

内海哲也が戦っていた重圧 初開幕投手で活きたOB左腕のアドバイスとは

内海哲也

初の開幕投手で覚えた呼吸法

「オープニングゲーム、行くよ」 

 2007年の開幕戦を1、2週間後に控えたある日、原監督に呼ばれてそう伝えられました。前年まで7年続けて開幕投手を務めてきた上原さんがふくらはぎの痛みを抱えて、急遽登板を回避することになったからです。

 プロに入って一番「ええっ!?」と驚いた瞬間でした。

〈自分にジャイアンツの開幕投手ができるのだろうか……〉
 そう考えると、開幕戦の数日前から眠れなくなりました。対戦相手は横浜ベイスターズで、ベッドの中でシミュレーションをしながら寝ていると、村田修一さん、内川聖一、吉村裕基などに打たれる夢ばかり見てしまいます。
〈やばい、やばい……〉
 何度も嫌な目覚めをしたことは忘れられません。

 3月30日、本番を迎えた朝も極度の緊張感に包まれていました。

 開幕戦が行われる横浜スタジアムには、ジャイアンツの先輩である宮本和知さんがテレビ番組の取材で来ていました。正直な心境を伝えると、呼吸法を教えてくれました。

「5秒、ゆっくり深く吸って。次は10秒間かけて吐く。そうしたら落ち着いてくるから」

〈落ち着け、落ち着け……〉
 自分に言い聞かせながら、宮本さんに教わった呼吸法を必死にやりました。それでも緊張が取れたわけではないですが、息を吐くことで体からハーッと力が抜けるので、これはいいなと感じました。以降、宮本さんに教わった呼吸法は現役引退するまで16年間続けました。

 初回、緊張しながら横浜スタジアムのマウンドに向かい、スタンドのジャイアンツファンから歓声を浴びた瞬間、感極まって泣きそうになりました。それくらい、初めての開幕投手は特別に感じたのだと思います。

 試合は1回表に高橋由伸さんの先頭打者ホームランで1点を先制してもらったものの、直後に同点に追いつかれ、3回までに被安打4、フォアボールを3つ出して2失点。それでも4回表に李承燁、ルイス・ゴンザレスの連続ホームランで勝ち越してもらいます。5回表、ジャイアンツに訪れた二死満塁のチャンスはモノにできなかったものの、「ここで自分が踏ん張らなければいけない」と奮起し、直後を三者連続三振に斬って取ることができました。

 結局7回まで2失点に抑えて降板、開幕戦でチームに勝利を呼び込むことができました。試合後、この年に結婚した妻の聡子と食事をしてお祝いしました。

 聡子との結婚はシーズン中の5月7日に発表し、直後の登板となった5月11日の東京ドームでの中日戦は普段にも増して緊張しました。

〈結婚を発表していきなり負けるのは絶対に嫌だから、いつも以上に真剣に投げないといけない〉

 その気持ちが力みにつながりました。初回にいきなり一死1、2塁のピンチを招いたのです。ここから開き直り、4番のタイロン・ウッズに対して真っすぐ勝負でサードゴロ併殺に打ち取ると、7回1失点でリーグトップの5勝目を挙げることができました。

「皆さん、『結婚は大変だ』と言うけれど、本当に気持ちが追い詰められるというか……」
 試合後の取材でそう話すと、記者の皆さんは笑って祝福してくれました。

 開幕戦から好発進を切れたこの年は順調に勝ち星を重ねることができ、28試合で14勝7敗、防御率3・02。自身初タイトルとなる最多奪三振(180)を獲得。勝ち星はリーグ2位、防御率は同3位という成績を残すことができました。

 原監督が就任して2年目のシーズン、ジャイアンツは5年ぶりにリーグ優勝を達成。その一方、セ・リーグではこの年から始まったクライマックスシリーズ(CS)で中日に敗れました。僕は第2ステージ初戦に先発したものの、4回4失点という悔しい結果に終わりました。

 以降もCSではなかなかいい成績を残せませんでしたが、正直、一番きつい舞台でした。リーグ優勝して“一抜け”を決めたら、CSでは「絶対勝たないと、恥をかく」という重圧がのしかかってきます。マウンドに上がるときにはいつも、半端ではないプレッシャーを感じていました。

プロで活きた“補欠”の経験

 必死に駆け抜けた2007年は、僕にとって“実質プロ2年目”という位置づけでした。前の年に先発ローテーションとして1年間チームに貢献することができ、2007年は真価が問われたシーズンだったからです。

「お前、調子に乗るなよ。3年やって、ようやく一人前やぞ」

 ジャイアンツの先輩で、バッテリーコーチの村田真一さんに口を酸っぱくして言われました。プロ野球の世界ではよく語られることですが、1年間ポッと活躍したくらいではダメだという意味です。「2年目のジンクス」という言葉もあるように、それほど継続的に活躍するのは簡単ではない世界だということです。
 実際、1年だけ高いパフォーマンスを見せた後に、パッとしなくなる選手は少なくありません。簡単に言えば、“調子に乗ってしまう”からです。大活躍した翌年、明らかに練習しなくなる選手も中にはいました。

 ではなぜ、僕は調子に乗らなかったのか。

 その理由は、“普通の選手”だったからです。速い球を投げられるとか、確実に打ち取れるようなウイニングショットを持っているピッチャーではありませんでした。投げる能力的には、プロでは至って普通の投手です。

 中学生のときに“補欠”を経験していることも大きいと思います。思春期に経験した出来事なので、今でもあのときの悔しさは忘れられません。

 京都田辺ボーイズではグラウンドを一面借りていて、ナイターの明かりが煌々と照っているメインの場所でレギュラーたちは練習していました。
 対してメンバーから外れている選手たちは、ナイターの明かりが見えるか、見えないかというくらい暗いところでノックを受けていました。
 控え組に入れられた選手は、「なんとしてもレギュラー組に行きたい」「絶対あいつらを抜いてやる」という気持ちになります。僕は補欠だったので、そういうハングリーさをよくわかっています。

 それはプロになってからも同じで、たとえ1、2年結果を残したからといって調子に乗るようなことはありませんでした。ファームには、中学生の僕と同じような気持ちで頑張っている選手がたくさんいるからです。

〈あかん、あかん。慢心したら、足をすくわれる〉

 中学生の頃の体験を思い出し、ずっとそう考えていました。

書籍紹介

【写真提供:KADOKAWA】

巨人、西武の投手として19年の現役生活を終え、2022年に引退した内海哲也。
「自称・普通の投手」を支え続けたのは「球は遅いけど本格派」だという矜持だった。
2003年の入団後、圧倒的努力で巨人のエースに上り詰め、
金田正一、鈴木啓示、山本昌……レジェンド左腕に並ぶ連続最多勝の偉業を達成。
6度のリーグ優勝、2度の日本一、09年のWBCでは世界一も経験するなど順調すぎるキャリアを重ねたが、
まさかの人的補償で西武へ移籍。失意の中、ある先輩から掛けられた言葉が内海を奮い立たせていた。
内海は何を想い、マウンドに挑み続けたのか。今初めて明かされる。

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