内海哲也が戦っていた重圧 初開幕投手で活きたOB左腕のアドバイスとは
【写真は共同】
6度のリーグ優勝、2度の日本一、09年のWBCでは世界一も経験するなど順調すぎるキャリアを重ねたが、まさかの人的補償で西武へ移籍。失意の中、ある先輩から掛けられた言葉が内海を奮い立たせていた。内海は何を想い、マウンドに挑み続けたのか。今初めて明かされる。内海哲也著『プライド 史上4人目、連続最多勝左腕のマウンド人生』から、一部抜粋して公開します。
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監督推薦で出場した初のオールスター
前年は堀内監督に我慢して使ってもらって4勝9敗でしたが、2006年はある程度頑張ったなという“やり切った感”がありました。13敗しているので“我慢して使ってもらっている”ことには変わりないものの、「俺、プロでメシを食っていけるな」という手応えを感じました。
シーズン中には、阪神の岡田彰布監督に推薦していただき初めてオールスターゲームに出場しました。「自分でいいのかなあ」と当惑する部分もありましたが、オールスターに選ばれるのは周囲に認めてもらった証ですし、セ・リーグ代表の一員になれてうれしかったです。
先発した第2戦はサンマリンスタジアム宮崎で開催されました。ジャイアンツのキャンプ地なので地元のようなものです。「とにかく楽しんで投げよう」と思って真っすぐ中心で勝負し、2回無失点、被安打1に抑えることができました。
パ・リーグの強力打線の中で、最も楽しみにしていたのが新庄剛志さん(当時の登録名はSHINJO、日本ハム)との対戦です。2回二死から迎えた打席では2、3球目に146㎞/hの真っすぐで空振りを取ると、最後は内角低めの144㎞/hでサードへのファウルフライに仕留めることができました。計37球を投げて、取ったすべてのアウトは真っすぐでした。内容的にも満足でき、オールスターゲーム新人賞に選ばれました。
試合の合間にはいろんな方と話をさせてもらい、ヤクルトの石川雅規さんにはチェンジアップの腕の振り方を教えてもらいました。シーズン後半はそのチェンジアップが効果的な球種となり、以降も自分の武器になりました。
石川さんの真っすぐは130㎞/h台と決して速くないですが、チェンジアップやシンカー、スライダー、カットボール、カーブなど多彩な変化球を巧みに投げ分けバッターを抑えていくことが持ち味です。うまくかわすピッチングは当時の僕になかったもので、すごく参考になりました。
石川さんは同じ左腕投手で、持ち球も似ています。現役時代は「ライバル」という存在で、負けたくないと感じていました。年齢的には3学年上ですが、43歳になった今も現役を続けているのは「すごい」の一言に尽きます。食事をさせてもらったこともあり、今も交流は続いています。現役時代はライバル視していましたが、今は“応援団”のひとり。できるだけ長く現役で活躍してほしいと願っています。
発想の転換でスライダー習得
僕は東京ドームで開催された第2戦に先発し、6回自責点3。3年後、WBCの日本代表に選ばれたときにも苦しめられたメジャーリーグ公式球はツルツルで、試合序盤はスライダーがまったく操れなかったですが、トータルではそれなりに投げられたと思います。この年に遊撃手としてシルバースラッガー賞に輝いたホセ・レイエス(ニューヨーク・メッツ)や首位打者のジョー・マウアー(ミネソタ・ツインズ)から三振を取れたことは、思い出しても笑顔になるくらいです(笑)。
配球としては、真っすぐを見せながらカーブとスライダーで打ち取ったような記憶があります。この年、飛躍のきっかけになったのがスライダーを覚えたことでした。
きっかけはカーブの精度が本当に悪くて、登板ごとにストライクが入るか否か、全然わからなかったことです。僕のカーブは曲がりも大きいので、コントロールするのがなかなか難しく感じていました。しかもドロップのように縦に落とす投げ方をしていたので、思うように操ることができていませんでした。
そこで発想を変えて、カーブを「スライダー」と言われる球種の握り方に変えてみたのです。文字どおり、横ひねりさせるような意識にしました。
カーブを縦で投げると低めにワンバウンドかショートバウンド、あるいは高めに抜けるイメージしか湧かなかったのが、スライダーだと思って横に曲げると狙ったところにバシン、バシンと行くイメージを持てるようになりました。ボールを縦に抜くより、横に曲げるという感覚のほうが軌道的に僕の腕の振りと合ったのだと思います。ストレート、カーブ、チェンジアップという持ち球にスライダーが加わったことで、ピッチングの幅が広がりました。