計り知れないドゥトラの貢献度 日本のサッカーと文化に順応した生真面目な男
2001年8月に初来日したドゥトラ。降格危機にあったチームを救うと、すぐに日本のサッカーと文化に順応した 【写真:アフロスポーツ】
2001年8月から2006年シーズンまでが第1期、そして38歳で戻ってきた2012年から2014年7月までが第2期。リーグ戦213試合出場は“助っ人”で断トツの数字であり、2001年にはヤマザキナビスコカップ優勝、2003年、2004年にはリーグ2連覇、そして2013シーズンには天皇杯制覇と、主要3タイトルをこのクラブですべて経験したのは、横浜F·マリノスに移行して以降、日本人選手も含めて彼しかいない。Jリーグベストイレブンに2度輝いている助っ人もドゥトラだけだ。そのプロフェッショナルな姿勢はチームメイトから常にリスペクトされ、模範の人でもあった。
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ファーストステージはわずか3勝で勝点を11しか積み上げられず、オズワルド·アルディレスは解任。1990年のイタリアワールドカップでブラジル代表を率いたセバスティアン·ラザロニが招聘された。その新指揮官に誘われる形でスポルチ·レシフェから半年間の期限付き移籍で横浜F·マリノスにやって来たのがドゥトラだった。
「ジーコが日本のサッカー文化を高めた先駆者であることは知っていましたが、日本自体に対するイメージってそんなになくて、地震が多いとか、言葉が難しそうだとか、そういうことくらい。実際、チームに入ってみて感じたのは思ったよりも個々の技術力、サッカー自体のレベルが高いということ。行き来が多い、テンポが速いという日本サッカーならではの特徴も感じたので、これは自分のフィジカルをしっかり上げなきゃいけないと思ったことを覚えています」
外国籍選手の場合、日本文化に溶け込めるかどうかも大切な要素になる。列に割り込みしないで並ぶ、ゴミをあちこちに捨てないなどマナーを重んじる文化は、生真面目な性格の彼にとってなじみやすかった。
無尽蔵のスタミナで左サイドを制圧
最終節の神戸戦で直接FKを叩き込んだドゥトラ。その貢献度の高さは計り知れないものがあった 【写真:築田純/アフロスポーツ】
ヤマザキナビスコカップの初優勝に貢献し、残留を懸けて臨んだのが最終節の11月24日、アウェイでのヴィッセル神戸戦。中村が累積警告で欠場となったために急きょ、セットプレーのキッカーとなり、前半14分に直接フリーキックを叩き込んだ。結果的には1-1のドローでアビスパが負けたために残留が決まったものの、もし彼の一発がなく、アビスパが勝っていればJ2降格になっていた。デビュー戦の決勝ゴールといい、最終節の直接FKといい、ドゥトラがいなければJ1残留は果たせなかったかもしれない。
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