連載:我がマリノスに優るあらめや 横浜F・マリノス30年の物語

19歳でマリノスの守護神となった川口能活 「ゴタゴタの渦中」でのJデビュー

二宮寿朗
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選手権で優勝を果たした後にリーグ入りした川口。超高校級GKと言われた男もプロの壁を突き付けられた 【写真:山田真市/アフロ】

 おっ、選手権のヒーロー。

 水沼貴史からそんな声が挙がると、いくぶんか緊張がやわらいだ気がした。キヨショウ(清水商業/現·清水桜ケ丘)のキャプテンとして全国高校選手権を制し、甘いルックスもあって、川口能活は1994年、横浜マリノスに加入すると、注目の的になっていた。

 新旧の日本代表をそろえるチームメイトを前に、ガチガチで自己紹介していたときに大先輩が場を和ませてくれた。静岡の先輩である鈴木正治もそれに続いた。照れ笑いを浮かべると、いかつい先輩たちの表情も崩れていた。最初は誰にも話しかけられず、なじめないで不安にもなったが、何となく打ち解けられそうだと感じた。
 高校3年時の1993年にJリーグが開幕し、マリノスに行きたいと直感的に思った。高1で横浜に初めて遠征して、国際色ある港町の雰囲気に憧れを持っていたからだ。そして、日本代表の守護神を務める松永成立がいるクラブで成長できれば、いずれ日の丸をつけてプレーすることも現実になるという思いもあった。

「1年目の1994年は、ほとんどサテライトチームで練習をやっていて、トップチームに絡むことは、ほとんどなかったんです。紅白戦だけ一緒に練習できるので、そこでシゲさん(松永成立)から話しかけられたときは相当嬉しかったですね。普段の練習から試合と同じような雰囲気だったので近寄りがたい感じがありましたから」

 選手権のヒーローも、GKの序列としては一番下。日産時代から在籍する浦上壮史し、ベテランの横川泉や、2つ年上の高桑大二朗らが在籍していた。サテライトの試合でも出られないことも少なくなく、自信どころか、プロの壁を突きつけられた。

「技術面、フィジカル面などすべてにおいて先輩たちとの力の差をすごく感じていました。シュートのボールスピードに慣れるまでに時間を要したし、まだまだJリーグの試合に出られるレベルじゃないなって痛感させられました」

鍛錬の日々から監督交代による序列の変化

 新子安にあった寮から練習場のある獅子ヶ谷までは高桑の車で連れていってもらった。寮生活も思った以上に楽しかった。チームメイトやスタッフといつも一緒にいた。部屋から見える景色が好きで、食事も美味しかった。かなり古い建物であったものの、そこはまったく気にならなかった。

 U-19日本代表では試合に出つつ、クラブに戻ったらサテライトで練習あるのみ。磨いた一つが低弾道のパントキックだった。当時は高くボールを蹴るドロップキックが主流の時代。ブラジル代表ジルマールの映像を観て高校時代から練習に取り入れていたが、実戦で使うようになったのはこのサテライト時代であった。

 序列に変化があったのはその年の天皇杯。3名登録のGKで松永、浦上に続いて3番手で登録されたのだ。ここがターニングポイントになったという。
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著者プロフィール

1972年、愛媛県生まれ。日本大学卒業後、スポーツニッポン新聞社に入社し、格闘技 、ラグビー、ボクシング、サッカーなどを担当。退社後、文藝春秋「Number」の編集者を経て独立。 様々な現場取材で培った観察眼と対象に迫る確かな筆致には定評がある。著書に「 松田直樹を忘れない」(三栄書房)、「中村俊輔 サッカー覚書」(文藝春秋、共著)「 鉄人の思考法〜1980年生まれ、戦い続けるアスリート」(集英社)など。スポーツサイト「SPOAL(スポール)」編集長。

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