現役引退の徳永悠平が語る万感の思い FC東京、V長崎、ロンドン五輪…
FC東京、V長崎で活躍した徳永悠平は今季限りで現役引退。寡黙な男がさまざまな思いを語ってくれた 【佐々木真人】
城福浩監督との出会い
FC東京には14シーズン在籍。派手さはないが、堅実なプレーでチームを支えた。09年ナビスコ杯優勝に貢献 【(C)J.LEAGUE】
本当に、やりきったなって思う。小学校から数えたらサッカーのある生活が当たり前であり続けた。ちょっと不思議だけど、自分では燃え尽きたと思っている。引退したことで、ほんの少し虚脱感を感じたのは自分でも意外だった。でも、これから先の未来は楽しみかな。
――キャリアを振り返ると、まずは早稲田大学から特別指定選手としてFC東京デビューし、その後、ラ・リーガのヴァレンシアへの挑戦も含め、いろんな選択肢がありましたが。
懐かしいね。ヴァレンシアには、セカンドチームの練習にも参加させてもらった。ただ、海外に行くという決断には至らなかった。当時は海外挑戦が当たり前の時代ではなかったことが大きいかもしれない。今みたいにヨーロッパの情報がオンタイムで手に入る時代だったら違っていたかもしれない。最終的には大学の監督だった大榎克己さんにも相談して、横浜F・マリノスと、浦和レッズと、東京の3つで悩んだ。そこから2006年のドイツ・ワールドカップ(W杯)に出るために、東京を選んだ。東京には日本代表の加地亮さんがいて、そこに勝てばW杯に出られるという思いもどこかにはあった。ただ、加地さんが移籍する可能性もあるとは言われていたので、正直、そこは関係なかった。自分次第だと思っていたので。
――その決断は間違っていなかった?
今振り返ってみれば、本当にいいチームに入れたと思う。一番は、サポーターの存在かな。本当にすごいですよ、あの愛情と、熱量は。試合に負けた後、中指を立てられたことも、今ではいい思い出の一部になった。彼らが人生を懸けて応援してくれたことは自分にとっての大きな財産になっている。それはハッキリ言える。
――もともとファンや、サポーターに対して、そうした感情を抱くタイプではなかったと思いますが、何がきっかけでしたか?
キャプテンをやったことは本当に大きかったと思う。それまでは、自分がどうなるかしか考えてこなかったかもしれない。
――その転機となった、城福浩監督との出会いがあります。本当に、いつも怒られていたね?
本当に、怒られた。何度か心が折れそうになった。ほかの選手が同じプレーをしても、そこまで怒られなかったから。とにかく「もっと声を出せ」は、何度も言われ続けたかな。サイドバックは、息が上がってなかなかしゃべれないんですよ。でも、声を出し続けることで集中力が保てるところもある。当時を思い返すと、どこかで抜けたプレーがオレにはあったんだと思う。監督のなかでは、それが気になっていたのかもしれない。オレのことをどう思っていたのかな? それは知りたいかもしれない。
縮まったサポーターとの距離
FC東京ではJ2降格を経験。主将としての責任を感じ、降格が決定した最終戦後に涙した 【(C)J.LEAGUE】
一番悩んだし、一番自分が人間的に成長できたと思える年だった。キャプテンもやって、チーム事情でボランチでもプレーしていた。でも、もうやばかった。その言葉に尽きる。途中で、逃げ出したくなったからね。チームもうまくいっていなかったけど、監督がオレならできると思ってキャプテンやボランチを任せてくれた。その信頼を感じていたし、期待に応えたいと思っていた。なんとか監督のために、と思ってプレーしていた。
――降格が決まった、最終節の京都サンガ戦で涙を流した姿は、今も印象に残っています。
それまでJ2に落ちたことがないチームだったし、ましてやキャプテンとしての責任もあった。あの年、降格したのは自分のせいだと思っていた。いろんな感情が、あの瞬間、一気に吹き出た。ただ、あの試合のことは今も思い出せない。記憶からごっそり抜け落ちている。
――それまで堂々としているイメージもあったので、周りも驚いていました。
それは演じていたというか、焦りを見せちゃいけないと思っていた。その前に、ホームでモンテディオ山形に勝てばという試合があった。逆に、その試合のことはハッキリと覚えている。リードしていた終盤に、逃げ切りたい思いが勝ってボランチだったのに相手最終ラインまでプレスをかけにいった。でも、そこで外されて、ゴール前に放り込まれて失点した。なぜ、あそこまで飛び出てしまったのかは思い出せないけど、これで残留すれば最低限の仕事ができたと思ってしまった。それがダメだったのかもしれない。
――そして、1年でJ1昇格を果たします。
いろいろ背負って戦っていた。周りとは違う感情だったと思う。とにかく1年で戻るしかないという思いだけだった。ニュウさん(羽生直剛)がカターレ富山戦で得点を決めて帰ってきたことが大きかった。あの後、ルーコン(ルーカス)が戻ってきて、あそこの試合からボールを持てれば勝てるというサッカーを確立できた。昇格を決めた瞬間は涙が出なかった。ただただ良かったとホッとした。自分の責任を果たせた瞬間だった。
――その前後で、ファンや、サポーターに対しての言葉の熱量や純度が変わってきたように思います。
一番は、距離感が縮まったんだと思う。それまでは、練習後のファンサービスも、できるだけ早くあがりたいタイプだった。降格を経験してあれだけ悲しい思いをさせて、1年でJ1に昇格して心の底から喜んでくれた姿を見た。そういう光景を目の当たりにしてきて意識が変わった。もちろん自分のためにプレーをしなければいけないという考え方はある。だけど、あれだけ一緒になって、本気で応援してくれる人がいるなら大切にしなきゃいけないと、ちゃんと思えるようになったからだと思う。
――当時は『人気がない』と自分でも言っていたけど、徐々にスタジアムでも背番号2のレプリカを見るようになっていきました。
いろんなところでスタジアムでユニホームを着てくれている人がいないって言ったからなのかは分からないけど、だんだんオレのユニホームを着てくれる人が増えていった。あれは、本当にうれしかったな。特に、ゴール裏でユニホームを着てくれている人を見つけたとき。あそこで応援してもらえるのは、振り返ってみても幸せだったなって思える。