ビーレフェルトの街に根付く オザキへの親愛と日本人選手への思い

アルミニア・ビーレフェルトのサポーター。彼らと日本人選手には深い結び付きがある 【Getty Images】

 かつて、37年前のドイツ・ビーレフェルトに、ひとりの日本人が降り立っていた。彼の名は尾崎加寿夫。当時、日本サッカーリーグ(以下、JSL)の三菱重工サッカー部に在籍していたサッカープレーヤーである。年俸約1000万円でアルミニア・ビーレフェルトとプロ契約を交わした彼は、奥寺康彦に続く日本人2人目のブンデスリーガーになった。サッカー先進国のクラブで活躍の場を得た若者は、その小さな街で自らの才能を開花させ、ファン・サポーターの心に強烈なインパクトを残した。

 当時の者たちが抱いた彼への思いは現代のアルミニア・サポーター、そしてビーレフェルトという街に着実に根付いている。そして今は、堂安律という新たなる日本人選手が、その期待に応えようとしている。

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『アルミニアは気が狂いでもしたのか?』

 アルミニア・ビーレフェルト(各種混同を避けるため、クラブ名をアルミニア、街の名をビーレフェルトと表記)で有名な、あるひとつのファンクラブがある。創立以来の会員である13人は今でもアルミニアを応援するため、どのアウェーの試合にもついて行く。このファンクラブが特異なのは、その紋章が日の丸であることだ。ちなみに、その配色は日本の国旗のように赤ではなくアルミニアのクラブカラーである青で彩られている。そのクラブ名は「Ozakis Erben(尾崎の継承者たち)」。アルミニア・ビーレフェルトのクラブ史に名前を残した日本人、尾崎加寿夫へのオマージュである。

 現在60歳の還暦を迎えた尾崎は、ドイツ・ブンデスリーガでプレーした2人目の日本人選手である。どの世界でも『2人目』を思い出せる者はなかなかいない。人類で2人目に月へ着陸した人物は誰だっただろうか? もちろん1人目のニール・アームストロングのことを知っている者は多い。しかし、エドウィン・“バズ”・オルドリンという人物の名前を思い浮かべられる者はどれだけいるだろうか。

 尾崎のケースもこれに似ている。1977年に日本サッカーリーグの古河電工から1.FCケルンへ移籍し、のちにヘルタ・ベルリンとヴェルダー・ブレーメンでもプレーした奥寺康彦のことは、ドイツの多くのファンが覚えている。しかし、83年にブンデスリーガへやってきた尾崎を知るサッカー好きたちは、おそらくドイツ全国では多くないだろう。しかしビーレフェルトの街では、ふたりの認知度が全く逆になる。

 アルミニアのファン・サポーターたちの中には、尾崎が初めてこの街にやってきた日のことを覚えている者もいる。なぜならば、尾崎がここに来たことに、彼らはとても驚いたからだ。

「とてもセンセーショナルだったし、最初は全く信じられなかったよ。日本人選手がアルミニアに来るなんて……」

 当時の“アルム”(ビーレフェルトのホームスタジアムの愛称)に通い、現在もこのクラブのサポーターであり続ける56歳のラルフ・シュトルック氏は、そう言って過去を振り返った。

「当時はみんなで言ったものだよ。『アルミニアは気が狂いでもしたのか?』とね」
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