前田勝宏らメジャー挑戦経験者に聞く 田澤ルール撤廃後の影響は?

阿佐智

メジャー挑戦の直訴受け入れられず退団騒動へ

日本人初の100マイル(160キロ)を計測した前田だったが、ヤンキースでの5年間でメジャーのマウンドを踏むことはできなかった 【写真提供:フォルティチュード・ボローニャ】

【連載】田澤ルール撤廃後の日本球界を考察・第2回

 前田勝宏の名を覚えている人はもう少ないかもしれない。1992年のドラフトで2位指名を受け、プリンスホテルから西武に入団した投手だ。3シーズンで1軍未勝利の彼の名がメディアを賑わせたのは95年オフのことだった。「メジャー挑戦」の直訴が球団に受け入れられないと分かると、秋季練習への参加を拒否し、退団騒動を巻き起こしたのだ。

「悪人扱いでしたね」と故郷・神戸で現在スポーツ店に勤務する前田は苦笑いを浮かべながら当時を振り返る。

「今となっては、何の実績もない人間がなにゆうとんねんって感じですけど(笑)」

 転機となったのは、プロ2年目のオフに参加したハワイ・ウィンターリーグだった。ここで日本人初となる100マイル(160キロ)の球速を記録した前田にMLB各球団のスカウトの視線はくぎ付けになった。

「でもメジャーに行くって言っても、どうやって行くのかわからんし、西武との契約もよく分かってなかったですね」

 MLBから身分照会があったことを知ったのは、帰国後に契約更改を済ませた翌日だった。迎えた95年、前田の心はもう決まっていた。この年のオフに彼が起こした騒動をメディアは「第2の野茂問題」と書き立てた。

 マイナー契約だったものの、NPBでの実績のほとんどない前田に提示された契約金は、当時のレートで1億6000万円。前年に渡米した野茂英雄の2億円には及ばなかったが、ヤンキースの期待のほどがうかがえる。

 96年6月に渡米し、すでにシーズン中盤に入っていた2Aに合流。8月末には7回2死まで無安打の1安打完封という快投を演じた。今にして思えば、この時が一番メジャーに近づいた瞬間だったかもしれない。しかし、在籍5年で、ついにメジャーのマウンドに上がることはなかった。この間、4回のワールドチャンピオンに輝き、黄金時代真っただ中だったチームは、実績のない日本人投手を必要としなかった。

 アメリカでの最高キャリアは3A。ヤンキースとの契約が切れた後、中日でプレーしたが、1軍登板はなく退団。その後、台湾、中国、イタリアを渡り歩き、最後は日本の独立リーグで現役を終えた。

メジャー契約じゃないと厳しい世界

自身の経験からもマイナー契約でのアメリカ挑戦の厳しさを説く前田 【阿佐智】

「前田問題」は、日米間の選手の移籍についてさらなるルール作りの必要性があることを示した。96年4月には、NPB内で、将来的な国外リーグ挑戦を希望する者は、入団時の契約金の引き下げと引き換えに比較的短期間での国外球団への移籍ができるとする海外FA案が議題に上った。

 中学時代からメジャー志向で、社会人野球もNPBもその通過点でしかなかったと言う前田の目に「田澤ルール」撤廃はどう映るのだろう。

「いいことだと思いますよ。僕の時は、どうやってアメリカに行くのかも分かりませんでしたから。今なら行く方法はいくらでもありますし、あのルールがなくなれば、ドラフト候補生もアメリカに行きやすくなるでしょう」

 アマチュア選手の「メジャー挑戦」を肯定的に捉える前田だが、現実問題として、メジャー契約からスタートしないと厳しいと言う。実際、田澤はメジャー契約でレッドソックス入りしている。前田はマイナー契約からのスタートだった。

「簡単に『メジャー挑戦』って言いますけど、行けば何とかなるっていう世界ではないですから。NPBの一流投手は、みんなメジャー契約で行ってるでしょう。いくら好投しても、枠が空かない限りは上へ上がれないっていうのが精神的にきついです。みんな、それを分かった上で行った方がいいと思いますね」

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著者プロフィール

世界180カ国を巡ったライター。野球も世界15カ国で取材。その豊富な経験を生かして『ベースボールマガジン』、『週刊ベースボール』(以上ベースボールマガジン社)、『読む野球』(主婦の友社)などに寄稿している。

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