前田勝宏らメジャー挑戦経験者に聞く 田澤ルール撤廃後の影響は?

阿佐智

10代が適応するには厳しかった異国の環境

高校卒業後、すぐにアメリカ球界へ飛び込んだ川畑。当時、10代の少年には環境への適応が難しかったと振り返る。 【阿佐智】

 高卒野手としてMLB球団と初めて契約した川畑健一郎にも話を聞いた。

 97年春の甲子園を制した天理高のメンバーであった川畑にとってメジャーは憧れではあったが、具体的な目標ではなかった。最後の夏を終えた後、大学進学を決めていた川畑の元にやってきたのは、レッドソックスのスカウトだった。周囲には反対の声もあったが、進学から「メジャー挑戦」に進路を切り替えた。

 翌年3月、海を渡り、ルーキー級に配属された。2年目にはチーム内でトップの打率(2割9分7厘)を残し、トップチームの本拠地フェンウェイパークでの表彰式に招待されたが、実のところ、1年目が終わった時すでに、メジャーの舞台に立つのは難しいと悟っていた。

「エンジンが違いました」と彼はルーキー級の選手たちを評する。ただ、技量やポテンシャルに限界を感じたわけではなく、10代の少年には、野球以前に異国の生活に慣れるのが難しかったと振り返る。

 高校までの寮生活から、いきなりの異国での生活。野球以前の問題だった。話し相手が欲しくても日本語が理解できる相手もいない。いつクビになるかわからない環境で、選手たちはささくれだっており、チーム内での喧嘩は日常茶飯事。野球に没頭できる環境ではなかった。

「3年目にA級の一番上のレベルからワンランク下のチームに落とされたとき、同じ外野にいたルー・フォード(のちに阪神でプレー)が数年後にはメジャーで3割近く打ちました。それを考えると、高卒すぐではなく、人としてもう少し成熟してから行ったならメジャーまで行けたと今でも思っていますよ」

 しかし、現実には彼はA級止まりで、最後は独立リーグでアメリカでのキャリアを終えている。

プレーする場を求めてアメリカへ

所属の会社を退社した井戸はプレーの場を求めてアメリカへ渡った 【阿佐智】

 アメリカに渡る選手の動機は、必ずしも「メジャー挑戦」ではない。

「私の場合は、NPBに進むためのプレーの場を確保することでした」と言うのは現在兵庫で野球アカデミーを主宰している井戸伸年だ。徳山大から社会人野球の名門・住友金属に進み、主力打者として活躍したが、社内移籍した住金鹿島(現在、日本製鉄鹿島)で、プロ入り不可の方針を会社から示されたため、退社を決意する。会社の方針を伝え聞いていたプロ側も指名を回避。プレーの場を失った井戸は、次のドラフトまでの避難先としてアメリカを選び、ホワイトソックスとマイナー契約を結んだ。

 2002年の1シーズン、ルーキー級でプレー。帰国後、近鉄バファローズの秋季練習に練習生として参加し、ドラフト9位で入団した。球団合併騒動などもあり、1軍出場のないまま、3年の短い選手生活を終えた。

 両リーグでファームを経験した井戸は、育成力という面ではNPBの方が勝っていると映る。それゆえに、日本人選手の「メジャー挑戦」を肯定的にとらえながらも、アマチュアからいきなりの渡米ではなく、NPBを経由した方が現実的だと言う。

「今は高校球児でもメジャーを目標にする時代。成功するしないは別の話ですが。そういう中で、NPBを経由してからアメリカに行った選手の方が実績を積めば、自然とそういう流れになっていくだろうし、逆にアマチュアから直接向こうに行って成功する選手が増えれば、それが主になっていくということじゃないですかね。だからNPBも、育成なら日本がいいとか、アピールポイントを作っていく努力は必要でしょうね」

※敬称略

<11月13日掲載の最終回に続く>

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著者プロフィール

世界180カ国を巡ったライター。野球も世界15カ国で取材。その豊富な経験を生かして『ベースボールマガジン』、『週刊ベースボール』(以上ベースボールマガジン社)、『読む野球』(主婦の友社)などに寄稿している。

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