連載:キズナ〜選手と大切な人との物語〜

小林祐希が両腕に刻んだ家族の証し 「毎日サッカーができることに感謝」

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後編:プロになってからの苦悩、そして移籍

母親のゆかりさん、1児の母になった2つ下の妹ゆりあさん(左)、4つ下の妹みらのさん、みんながそろった2020年春の家族写真 【写真提供:小林選手ご家族】

 正式にトップチームに昇格した2011年シーズン、祐希は背番号21を与えられ、J2リーグで34試合出場2得点と華々しいデビューイヤーを過ごし、一気に全国区の選手となった。母ゆかりさんは息子の活躍を誰よりも喜んだ。「おじいちゃんと一緒に、祐希が載っている新聞を何部も買って並べたり、雑誌を何冊も買ったり。プロになってすぐの頃は祐希が載っているものをよく買っていましたね」
 もっとも祐希はこの頃、先輩選手とうまくいかず、悩み、移籍も視野に入れていた。「5チームぐらいからオファーが来て、年俸が3、4倍というものもあったんですけど、大好きな川勝(良一/元東京ヴェルディ監督)さんが『もう1年、一緒にやろう』と言って、まだ10代だった自分に10番とキャプテンを託してくれて。それで頑張ろうって。でも、まあ大変でしたね」

 苦慮する息子を見て、母親は看護師の仕事を辞めた。「自宅でも一人で考え込んでいる時間が増えて、すごいプレッシャーを感じていたみたいで。私には、食べたい時にすぐご飯を出すとか、静かな時間を過ごせるようにするとか、それぐらいしかできなかったんですけど。心の中でずっと『頑張れ、頑張れ』って祈っていました」。一方で祐希も、この思い切った行動に対して「めちゃくちゃ頑張ってくれましたね」と振り返る。

 しかし、この生活は長く続かなかった。愛息は時間を無駄にしないため、クラブの練習場近くで一人暮らしを始めた。「早くに家を出た方が親のありがたみも分かるだろうし、1回離れてみようかなと」。母親は意外にもそこまでさみしさを感じなかった。近くにいたこともあって、この時は連絡を控えることもできたという。

 実際のところどうだったのか、一応、祐希に確認してみた。再び爆笑された。「母親からも妹たちからも、連絡が来る頻度がめちゃくちゃ増えましたよ。『どこにいるの?』『今何してるの?』『一緒にご飯行こう』って。それまで『出てけ』って言ってたのに」

 10番を背負い、気を取り直して臨んだ12年シーズン、破局はすぐに訪れた。先輩選手との関係が悪化して、7月にジュビロ磐田への移籍を決断した。「自分が生意気だったから仕方ない部分もあるけど、あの時はピッチ外のことに気持ちが向いてプレーに集中できず、サッカーが楽しめなくなっていた。もう一度サッカーを楽しみたいと思って、その時期、最初に正式なオファーをくれたジュビロに行った」

 母親は磐田に旅立つ日に移籍することを知らされた。これには驚き、大きな精神的ダメージを負った。懐かしむようにほほ笑む。「さみしかったです。祐希が出て行った後、自然と涙が出てきて。それからも何度か泣いて、妹たちから心配されましたね、ママがうつ病になっちゃうんじゃないかって」
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