連載:あのJリーガーはいま

西紀寛、ジュビロ黄金期の思い出を語る 先輩たちに心の中で「うるせー」って

栗原正夫
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西紀寛はジュビロ磐田の黄金期を築いたひとり。当時の思い出、印象に残るエピソードをを語ってもらった 【(C)J.LEAGUE】

 1999年に千葉の市立船橋からジュビロ磐田入りした西紀寛は、1年目の1stステージ最終節のジェフユナイテッド市原戦(現ジェフユナイテッド市原・千葉)でプロデビューすると、同年の2ndステージでは12試合に出場し4ゴールをマーク。高卒ながらプロの壁を感じることなく、すぐにチームに欠かせない戦力へと成長していった。

 磐田は2001年に1stステージを制すと、02年は1stステージ、2ndステージを連覇し、史上初の完全優勝を果たすなど黄金期を築いた。当時の磐田がJリーグ史上でも最強と評する声は今なお少なくない。そんなチームで20歳になったばかりの西は、右サイドのチャンスメーカーとして安定した出場機会を手にしていた。

右サイドからの仕掛けがアクセントに

 西は01年、全30試合中22試合に出場し、うち16試合で先発。02年は全30試合中26試合に出場し、うち18試合で先発している。

「まだまだ主力じゃなかったですけどね。01年は(同じ右サイドで出場することの多かった)奥さん(大介/94年から01年に磐田、02年に横浜F・マリノスへ移籍)もいましたし、若い僕がメンバーに食い込むのも大変で。でも、当時の磐田は名波(浩)さんや藤田(俊哉)さんらを中心に、右、左、中央とどこからでもゲームが作れるくらい完成したチームで、困ったとしても前にゴンさん(中山雅史)とタカさん(高原直泰)がいて、なんとかしてくれました。だから試合中に困ることはそんなになくて、仮に僕が何もやらなくても勝ってしまうチームだったので。

 もちろん、チーム内の競争はありましたし、失敗したら居場所を失うというプレッシャーはありました。ただ、僕は細かいことを気にするタイプでもないですし、とにかく使ってもらったら点を取ってやろうという気持ちでやっていました」

 経験豊富な選手が多いなか、若い西の右サイドからの積極的な仕掛けはひとつのアクセントとしてハマっていた。

「ハマっていたかは分からないですが、僕は深く考えずにノリでやっていました(笑)。当時のジュビロは左の藤田さんが中に入ってきて、名波さんが下りて、ボランチの服部(年宏)さんが左に回ったり、ポジョションはかなり流動的で、右サイドもただ縦に行くだけではなく、中にポジションを取ったり。

 具体的な指示? よく覚えてないですが、攻めていて相手と1対1になれば基本勝負。前に行くなと言われても勝手に行ってしまいましたね。だって横や後ろにはたいて、またマークにつかれるなら、ひとりで抜いてしまった方が楽ですから」

練習から高い緊張感、殺伐とした雰囲気

磐田は02年に1stステージ、2ndステージを制して史上初の完全優勝。若手の西も主力として豪華メンバーに名を連ねた 【(C)J.LEAGUE】

 日本代表経験者も多く、成熟したメンバーがそろっていただけに精神的な強さがなければ、押しつぶされてしまっても不思議ではないシチュエーションだったように思う。
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著者プロフィール

1974年生まれ。大学卒業後、映像、ITメディアでスポーツにかかわり、フリーランスに。サッカーほか、国内外問わずスポーツ関連のインタビューやレポート記事を週刊誌、スポーツ誌、WEBなどに寄稿。サッカーW杯は98年から、欧州選手権は2000年から、夏季五輪は04年から、すべて現地観戦、取材。これまでに約60カ国を取材で訪問している

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