連載:怯まず前へ 常に結果を出し続けるチームと強い心の作り方

柏原竜二が見せた涙の意味 「本気」がチームを成長させる

酒井俊幸
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第5回

2011年の全日本大学駅伝、泣きながらゴールした柏原 【写真は共同】

「日々は小さな奇跡で成り立っている。大きな奇跡を成し遂げようと思ったら、小さな奇跡に気づいて、日々やるべきことをやる。生かされた者として、やらなければならない」

 2011年は、忘れられない大きな出来事が起こった年でした。
 3月11日の東日本大震災です。

 私たち夫婦は福島県出身ですが、東洋大学陸上競技部には柏原竜二をはじめ、当時は福島県出身の部員が6人もいました。家族はみな無事でしたが、私と妻の実家も、部員たちの実家も被害に遭いました。

 冒頭は震災後に部員たちに伝えたメッセージです。
 柏原は、下級生のころは人前に出ることがあまり好きではありませんでしたが、震災後は「自分にも何かできないか」と率先して復興支援イベントに参加しました。

 東北の人たちに元気を与える、そして感動を届ける走りをしたいという意志が強かったのでしょう。彼は、好きな陸上ができる、練習できるのは幸せなことだと言っていました。

「苦しいときこそ、諦めずに懸命に走る姿を見せよう」

 私も選手たちも、使命感に燃えていました。

 初めて本気で学生駅伝三冠を狙ったこの年、出雲駅伝では1区の柏原が気負いからか6位とやや出遅れました。しかし、2区から追い上げ、3区の設楽悠太、4区の田中貴章、5区の市川孝徳(現・日立物流)と連続で区間賞を取りました。田中でトップに立って、アンカーの設楽啓太が初優勝のテープを切りました。

 柏原の遅れを他のメンバーで巻き返すという過去にない勝ち方で、柏原頼みからの脱却を目指したチーム作りが実を結びつつあると実感できました。
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著者プロフィール

1976年福島県生まれ。学校法人石川高等学校卒業後、東洋大学に入学。大学時代には、1年時から箱根駅伝に3回出場。大学卒業後、コニカ(現・コニカミノルタ)に入社。全日本実業団駅伝3連覇のメンバーとして貢献。選手引退後は、母校である学校法人石川高等学校で教鞭をとりながら、同校の陸上部顧問を務めた。2009年より東洋大学陸上競技部長距離部門の監督(現職)に就任。就任1年目でチームを優勝に導くという快挙を達成、箱根駅伝では、優勝3回、準優勝5回、3位2回という成績を達成。

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