連載:プロ野球 あの人はいま

野球のエリート街道を歩み続けた喜多隆志 こだわりを捨てて臨んだ“勝負の5年目”

沢井史

「覚悟はしていた」戦力外通告

5年間のプロ野球人生に悔いなし。戦力外通告を受けた喜多は前向きに将来を見据えていたという 【撮影:スリーライト】

 智弁和歌山では1年生の夏からスタメン出場し、大学でも入学してすぐのリーグ戦からフル出場。プロに入っても1年目のシーズン序盤は出場機会があったものの、次第にベンチで試合を見つめることが増えた。そして2年目、3年目…と次第に喜多の影は薄れていく。4年目になると一軍に上がるきっかけすらつかめなくなった。

「あの頃はただユニフォームを着ているだけでした。『自分は何をしているんやろう』と……。5年目に入る前、『今年やらないともう最後になる』という覚悟はしていました。何かを変えないといけないと思って、打撃フォームを少し変えました。打撃フォームは自分のこだわりがあったので、新しい取り組みを行うことには抵抗がありましたが、そんなことは言っていられなかったので…」

 改革の甲斐があってか5年目は状態が良かったが、なかなか一軍から声は掛からなかった。オフを返上して練習漬けの毎日を送り「悔いのないようやれることはやったし、何かを怠ったとは思っていませんでした」と最善は尽くした。

 5年目のシーズンが終わろうとしていた10月1日。球団から携帯電話に着信が入った。

「『来たな』と思いました。覚悟はありました」。来季の戦力外を通告されると同時に、球団からはスタッフとしてチームに残ることを打診されたが、首を縦に振らなかった。最後の挑戦としてトライアウトは受験したが、5打数無安打。「逆にすっきりした感じはしました。むしろ次に向かっていこうという気持ちになりました。競争に勝ち切れなかったのは自分の実力のなさでした」。5年間のプロ野球生活に終止符を打ち、新たな夢でもある“指導者”へ向けて相談するために、喜多は慶大の恩師・後藤寿彦監督のもとへ向かった。

(企画構成:株式会社スリーライト)

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喜多隆志(きた・たかし)

【撮影:スリーライト】

 1980年2月6日生まれ。奈良県出身。智弁和歌山高では中堅手として活躍し、甲子園に3度出場。97年の夏の甲子園では、現在、同校監督を務める中谷仁氏(元阪神など)らとともに優勝を果たした。卒業後は慶応大に進学。大学でも主軸を任され、東京六大学野球リーグで00年、01年の2度の秋季リーグ戦優勝に貢献。ドラフト1位で千葉ロッテマリーンズに入団。02年には当時パ・リーグ史上8人目となる2試合連続サヨナラ打を記録するなど将来を期待されるも、その後は出場機会に恵まれず、06年に引退。引退後は朝日大コーチ、母校である智弁和歌山高部長を経て、現在は興国高(大阪府)の監督を務める。

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著者プロフィール

大阪市在住。『報知高校野球』をはじめ『ホームラン』『ベースボールマガジン』などに寄稿。西日本、北信越を中心に取材活動を続けている。

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